「横浜で生まれたキリンビールは、これからも横浜で」 ビール産業発祥の地・横浜から始まったキリンビールの歩み
(公開日2026年6月12日)
北海道千歳、仙台、取手、名古屋、滋賀、神戸、岡山、福岡、そして横浜――。
現在、全国9つの工場を展開するキリンビール。その原点は、明治時代の横浜に生まれた小さな醸造所でした。
開港により早くから海外の文化が流れ込んだこの地で誕生したキリンビールは、その歩みの多くを横浜とともに重ねてきました。
日本のビール産業発祥の地ともいわれる横浜で、キリンが築いてきた歴史をご紹介します。
現在も西洋館や外国人墓地などの歴史的建造物が多く残る横浜・山手。江戸時代末期、鎖国を行っていた日本は諸外国に開国を迫られ、貿易港の一つとして横浜を開きました。山手地区は、当時の在留外国人たちが住むことを許されていた外国人居留地として発展しました。
1868年、元号が明治に変わると、西洋の文明の流入により日本社会が大きく変化する「文明開化」の時代が到来しました。日本を近代国家へと成長させるには、西洋文化を広めることが近道であると明治新政府は考え、制度・産業・文化の洋風化を積極的に推進しました。人々の生活様式や食文化にも、西洋風は根付いていきました。
開港当時は閑散とした田舎町だった横浜には、来日した外国人たちが輸入する品々によって西洋文化が花開きます。そんな横浜で、日本の食生活が変化しつつあることに目を付けた在留外国人たちによって設立されたのが、キリンビールの前身、ジャパン・ブルワリー・カンパニーでした。
1885年頃のジャパン・ブルワリー・カンパニー横浜山手工場
西洋料理店や牛鍋屋などが軒を連ねていた当時の横浜では、ビールをはじめとした西洋の酒が提供されるようになっていました。しかし、当時日本に流通していたビールは、ほとんどが輸入の海外ビール。多くの人々にとっては手の届かない高級品でした。
高級品から、日本に住む人々がもっと気軽に楽しめる飲料へ。明治初期の横浜・山手には、日本産ビールブランドの誕生に将来性を感じた外国人の手によるビール醸造所がいくつか建設されました。そのため、横浜は日本のビール産業発祥の地と呼ばれています。
そして1888年5月、ジャパン・ブルワリー・カンパニーから「キリンビール」が発売。現在の「キリンラガービール」へと続くロングセラーブランドとなります。
「キリンビール」発売広告(『時事新報』1888年5月28日付)
1907年には、日本人経営による麒麟麦酒株式会社が創立。横浜・山手の工場とともに、「キリンビール」のブランドとその歴史を引き継ぎました。
1907年頃の麒麟麦酒株式会社 横浜山手工場
キリンビール創業の地である山手の工場は、港の見える丘公園から元町に通じる千代崎町へと下る、現在は「ビヤザケ通り」と呼ばれる坂道の途中にありました。
湧き水が豊富でビール醸造に適した土地ではありましたが、横浜市東南丘陵の谷間にあたる同地は、麦芽やホップなどの原料を、山を越えて持ってきて、それを製品にして再び山を越えて運び出すという、物流上の困難を抱えていました。
横浜市電開通前の時代、工場に通じる谷戸坂という坂道から、馬や人力で原料や製品を運び込んだ苦労が記録に残っています。
明治四十四年山手トンネルの開通までは電車もなかったので、谷戸坂を越えて馬力で運んでいた。ゼ・ジャパン・ブルワリー時代、日露戦争で馬が徴発され、馬力が使えなくなったことがあった。そこで工場専属の槌勝運送店は大八車(木製の大きな二輪の荷車)を使って、人夫三人で、車の前を一人がひき、後を二人が押して、谷戸坂を越えたものであった。工場から坂を上るときには四ダース箱三つしか積めない。上りきってから積替え、二倍くらい積みこんで坂を下り、舟または貨車に持って行った。
麒麟麦酒株式会社五十年史
電車開通後、キリンビール専用停留所から船に商品を積み込む様子
工場跡地は現在、北方小学校と「キリン園公園」となっています。小学校敷地内のビール井戸や、公園内に建立された麒麟麦酒開源記念碑に当時の様子をしのぶことができます。
現在もキリン園公園に建つ麒麟麦酒開源記念碑
1923年9月1日11時58分。相模湾北西部を震源に発生した、関東大地震。マグニチュードは7.9と推定され、昼食の時間と重なったことから、多くの大規模火災が発生しました。首都圏を中心に未曽有の大災害となった関東大震災により、横浜に工場と本社事務所を構えていたキリンビールもまた、大きな被害を受けました。
被災の状況について、のちに発刊された社史「麒麟麦酒株式会社五十年史」では次のように語られています。
震災の起った時刻は、あたかも昼休みの直前であったが、煉瓦造の事務所も、工場も一斉に倒壊した。~何とも手のつけようもないので、集った従業員一同に一たん家に帰って、無事な者は再び集るように申渡して解散した。午後になって家が無事であった人達が集ったときには、貯蔵室が崩れていてビールがどんどん下水に流れるような始末であった。工場は火を受けてその夜のうちに灰燼に帰した。
麒麟麦酒株式会社五十年史
地震発生の翌朝から、従業員たちは焼け残った横浜市電引き込み線の荷出し場に集合し、救助や食料の調達にあたりました。貯蔵樽に残ったビールは、当時横浜市会議長であった監査役、平沼亮三のすすめで市民に配給して、たいへん喜ばれたという記録が残っています。
関東大震災後のキリンビール横浜山手工場
壊滅した横浜山手工場は、調査の結果、修繕するには新設とほぼ同額の費用がかかることが判明します。山手には将来工場を増設する余地もなかったため、もともと別の土地で拡張をはかる計画もありました。さらに、ビール醸造に適した湧き水もこの頃には枯れてきており、坂に囲まれた輸送上の不便も重荷でした。
麒麟麦酒は、創業の地、横浜山手での工場再建を断念。工場の移転先を検討することになります。
第一の候補地となったのは、市場に近い東京の赤羽。しかし、平沼亮三や地元財界人からは、「横浜で生まれたキリンビールは、これからも横浜で」という強い要望の声があがりました。
その思いを受け、新工場の移転先に選ばれたのが、のちに横浜市に編入される生麦町。現在もキリンビール横浜工場のある、現・横浜市鶴見区生麦の土地でした。運河に面し、国道にも近く、付近まで鉄道の引き込み線が敷かれた生麦は、工場敷地として好条件を備えていました。
1926年4月17日、横浜新工場が竣工。
生麦の横浜新工場
1926年 横浜新工場復興を告げる広告
新工場の建設には、当時キリンビール工場として稼働していた神崎工場(のちに尼崎工場と改称。1996年の閉鎖後は神戸工場に生産機能を移転)と仙台工場で得た技術の蓄積が結集しました。ドイツやアメリカから最新の機械設備を導入したほか、欧米に学んだ技師が得た最新の醸造技術を現場に取り入れ、品質向上のための研究を続けました。
そうした研究が結実し、キリンビールは当時としては画期的だった「透き通った淡色(Greenish Yellow)のビール」の製造を確立。市場で濁りが発生してしまうビールも多かった時代にあって、その品質は高く評価されました。ジャパン・ブルワリー・カンパニー以来の伝統である「品質本位のキリンビール」の評判は、新しい横浜工場の誕生でよりいっそう高まることになります。
新たなキリンビール横浜工場は、1926年6月13日に稼働を開始。6月19日に行われた復興祝賀会には、横浜市民をはじめ多くの人々が来場しました。
横浜新工場落成披露 生麦の商店街の様子
祝賀会で配布された「復興の魁」と記されたパンフレットには、横浜新工場での再出発の決意を次のように語っています。
今や横浜新工場の竣成を期とし、ただ精励と誠実を以て、専心これに報いるのほかなきを痛感せずんばあらず。
(横浜新工場の完成という大きな節目を迎え、私たちは、ひたむきな努力と誠実な姿勢をもって、この期待に応えていくほかないと、あらためて心に刻んでいます)
「復興の魁」 キリンビール横浜工場
新工場の祝賀会では、会場に設置された巨大なビールびんの模型が、ひときわ来場者の目を引いたそうです。この模型のレプリカは、2026年に生麦移転100周年を記念してリニューアルされた横浜工場で、工場見学に訪れたお客様の撮影スポットとして再現されています。
復興祝賀会の記録映像よりビールびんの模型とキリンビール横浜工場に再現されたレプリカ
明治時代、横浜の地で誕生したキリンビール。キリンの横浜での歩みは、これからも続いていきます。