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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールを積んだ黒船で鎖国を打ち破ったアメリカ東インド艦隊司令長官・ペリー
(Matthew Calbraith Perry)1794-1858/アメリカ出身

鎖国日本の終焉を告げる黒船来航

泰平の ねむりをさます じやうきせん たつた四はいで 夜も寝られず

マシュー・カルブレース・ペリー

マシュー・カルブレース・ペリー(日本カメラ博物館 蔵)


当時流行した茶葉の銘柄である「上喜撰」と、江戸湾に突如現れた「蒸気船」をかけたこの有名な狂歌がいい伝える通り、黒船来航は、鎖国日本の泰平の世を一転させる大事件であった。

アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる4隻の軍艦が、将軍のお膝元である江戸湾浦賀沖に出現したのは1853(嘉永6)年6月3日のこと。測量船を江戸湾深くまで進めて幕府を威嚇し、大統領の国書を渡して開国を迫った。

これを機に、日本は動乱の時代へと突入する。開国か攘夷かをめぐって世は二分され、坂本龍馬や新選組ら憂国の若き志士が全国を奔走する。江戸幕府の崩壊は、ペリー来航からわずか15年後のことであった──。

黒船船上で開かれた条約締結の祝宴

翌1854(嘉永7)年1月、ペリーは7隻もの軍艦を率いて再来航を果たす。ペリーと幕府は交渉を続け、下田や箱館(現・函館)の開港に加え、アメリカへの最恵国待遇などを取り決めた日米和親条約を締結。ここに、日本の鎖国は終わりを告げた。

条約締結から数日後の3月27日、のちに松下村塾を開く吉田松陰が、黒船に乗りこんで渡米を願い出るという有名な密航未遂事件を起こすのだが、同日に艦隊の旗艦ポーハタン号で船上パーティが開かれたことはあまり知られていない。ペリーが条約締結の祝いとして、大学頭・林復斎(ふくさい)ら70人前後の日本側官吏を招いたのだ。

祝宴はペリーの船室と後部甲板に設けられた二つの宴会場で催された。テーブルにはシチューや生ハム、チキンのスープなど豪華な料理とともに、各種アルコールが用意されていた。日米交渉時に幕府に献上された酒については、日本側の史料に「土色をしておびただしく泡立つ酒」などと記録が残っているが、ペリー艦隊は幾種類もの酒を積載していたようだ。そして、この「おびただしく泡立つ酒」こそがビールであり、船上での祝宴にも出された可能性は高い。
パーティーの様子はペリー自身の日記に以下のように記されている。

シャンパンをはじめワインも惜しみなく出された。また、甲板のテーブルには大量のパンチ(※1)が用意され、船室のテーブルでは委員(※2)らのためにほとんどありとあらゆる上等のワインが供されたほか、日本人の好みらしいリキュール、とくにマラスキーノ(※3)が出された。
※1:ブランデー、ラム酒などに果実や砂糖、香料を加えた飲み物
※2:日本側役人
※3:マラスカ種チェリーを原料としたリキュールの一種

(ペリー著『ペリー提督日本遠征日記』/木原悦子訳)

ポーハタン号船上での酒宴の様子

『ペリー提督日本遠征日記』より、ポーハタン号船上での酒宴の様子 (了仙寺 蔵)

アルコールを介した日米交流の始まり

初めて飲む西洋酒にとまどう者も多くいただろうが、パーティーは実に華やかで、大いに盛り上がったようだ。ペリーの日記にもこうある。

甲板の一団はどんちゃん騒ぎを始めていた。日本人が音頭をとって乾杯をし、「イギリス風に」大声ではやし立てているそばで、二組の楽隊がこれに負けじと大音響を立てていたのだ。

(ペリー著『ペリー提督日本遠征日記』/木原悦子訳)


幕府高官の一人である松崎満太郎などは、なんとペリーに抱きつき、「日本とアメリカは同じ心だ!」と連呼した。また、アメリカ側が「カリフォルニアと日本が近づいた!」と乾杯すると、盛んな拍手と喝采を浴びたという。

こうして、ポーハタン号における船上パーティーは大成功に終わった。多くのアルコールを酌み交わしながら、日米交流は大きく進展したのだ。

ペリーは帰国後、遠征記全3冊の執筆、編さんに従事した。その中で「日本人が、ひとたび文明世界の技能を有したなら、アメリカの恐るべき競争相手になるであろう」と述べている。日本人との交流を通して、その知的好奇心の高さと潜在能力を認めていたわけだ。

ペリーが死去したのは、『日本遠征記』が出版された翌年、1858(安政5)年のこと。この年、ペリーの念願であった日米修好通商条約が結ばれ、幕末日本はいよいよ風雲急を告げるのだった。

『ペリー提督日本遠征記』

1854年3月27日
パリ仕込みのコックは、この一週間夜も昼もなく働いて、ニューヨークのデルモニコの料理にもひけをとらない、多種多様の豪華な料理を準備した。交渉が成功したらこういう午餐会を開こうと私は前々から考えていて、そのために牛や羊やさまざまな種類の鳥を生きたまま飼っておいたのである。それとともに、ハム、舌肉、保存用に加工した大量の魚、野菜、果物を用いて、山のような御馳走が作られた。これは日本人だけでなく、客を楽しませるためにパーティーに参加させた、艦隊の士官全員にふるまわれたのである。
もちろん、シャンペンをはじめワインも惜しみなく出された。また、甲板のテーブルには大量のパンチが用意され、船室のテーブルでは委員らのためにほとんどありとあらゆる上等のワインが供されたほか、日本人の好みらしいリキュール、とくにマラスキーノが出された。
 (中略)
甲板の一団はどんちゃん騒ぎを始めていた。日本人が音頭をとって乾杯をし、「イギリス風に」大声ではやし立てているそばで、二組の楽隊がこれに負けじと大音響を立てていたのだ。
テーブルにはさまざまな料理がふんだんに並べられたが、すべてが魔法のように消えてしまった。食べきれなかった分は、日本人が紙に包んで例の大きなポケットに入れて持ち帰ってしまったからだ。

(ペリー著『ペリー提督日本遠征日記』/木原悦子訳)


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