歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

洋上でのビール体験を記録した筆まめの遣米使節・玉虫左太夫
(たまむし さだゆう)1823-1869/宮城県〈仙台藩〉出身

観察力と筆まめを買われ遣米使節団入り

玉虫左太夫

玉虫左太夫


開国か攘夷かをめぐり国内情勢が大きく揺れ動いていた1860(安政7)年1月、2隻の船が横浜港を出帆した。初の幕府遣米使節団を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号と、その護衛艦である咸臨丸だ。使節派遣の目的は、2年前に調印された日米通商条約の批准書交換とともに、海外事情や西洋文化の調査・探索にあった。

勝海舟、福澤諭吉、ジョン万次郎、小栗忠順(ただまさ)ら、そうそうたる顔ぶれが並ぶ一行の中に、玉虫左太夫という仙台藩士がいた。24歳にして幕府直轄の学問所である昌平黌(しょうへいこう)のトップ・林復斎(ふくさい)の門下に入り、その塾長を務めるほどの人物である。

しかし、玉虫には外国語のスキルがほとんどない。そんな彼が使節団員に選ばれたのは、ひとつには「記録係」としての能力があったからである。遣米使節派遣の2年前、彼は蝦夷地(現・北海道)の巡視隊に加わり、風土慣習についての詳細な記録を残している。その観察力や筆まめぶりが認められ、彼は使節団の一員として訪米を果たすことになった。

水不足の最中、天の恵みとなったビール

遣米使節団が、ハワイ、アメリカ、香港などを経て地球を一周し、横浜に帰着したのは1860(万延元)年9月のこと。この半年以上にも及ぶ航海の間、玉虫は期待にたがわず、日々の記録を欠かすことがなかった。その克明詳細な日記は『航米日録』と題され、貴重な歴史資料として現在に残されている。

日記の中にはビールに関する記述もある。出航後しばらくして洋上で初めてビールを口にした感想は「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」というもの。慣れぬものを口にして驚きながら、冷静に書き留めようとしている様子がうかがえる。その後、ワシントンで大統領に謁見し、ニューヨークで市民の熱烈な歓迎を受けた一行は、大西洋を横断し、喜望峰を目指してアフリカ大陸沿いを南下した。その頃の同年6月20日の日記に次のような記述がある。

午牌船将より、ビール一瓶・塩豚一股を出し、従者一同に分ち与う (『航米日録』)

船長からビールと塩豚が供され、使節全員で会食したようだ。
喜望峰に向かい南下していた最中、使節団を乗せた船は深刻な水不足に見舞われていた。当時のアフリカの港町では、十分な補給ができなかったのだろう。前日の日記には「水はいよいよ欠乏を告げ、食後ようやく一滴の水を分け合うのみ。そのときの騒動は餓鬼が食を争うかのようだ」とまで記されているほどである。そうした状況であっただけに、船長より与えられたビールは使節たちののどを潤し、気を晴らしたことだろう。玉虫の長大な『航米日録』の中で、ビールを飲んだという記述は数えるほどしかない。船内で貴重品だったビールを飲むことは、特筆すべき「一大イベント」だったわけだ。
「遣米使節乗船の図」

「遣米使節乗船の図」(小野秀雄コレクション/東京大学大学院情報学環 蔵)

情報収集に携わった男の最期

帰国した彼は在外中の見聞を藩に報告、『航米日録』も献上し賞賜を得た。その後も彼の類いまれなる観察力と筆まめぶりは生かされ、藩命で他藩や海外情勢の情報収集に従事した。その膨大な記録は、維新に入ってからも重用されたという。

しかし、最先端の情報に触れる機会の多かった玉虫は、次第に政治的な奔流に巻きこまれていく。

訪米から8年後の1868(慶応4)年春、新政府は無血開城により江戸入りする。これに抗する佐幕連合の奥羽列藩同盟が結成された陰には、仙台藩主の命を受けた玉虫の関与があった。しかし、新政府軍の攻撃により同盟はあえなく崩壊。玉虫は佐幕派として捕らえられ、仙台の獄に送られる。

切腹の処分が下されたのは1869(明治2)年のこと。究極の筆まめという彼の異能が新時代に生かされることは、ついになかった。

航米日録

二十日 晴、東南風
又東南或ハ西南ニ向ヒ、一日数次帆ヲ改ム。昨日ニ比スレバ少シク進ム。今日ハソンテーナリ。午牌船将ヨリビール一瓶・塩豚一股出シ、従者ニ分チ与フ。是迄曾テナキコトナリ。或人云フ、数日大洋ニ漂漾シ、衆ノ不平ヲ聞キ之ヲ慰メントノ策ナリト。夜ニ入リロアンタ港近キニ至リ、今宵十時ヨリ蒸気ヲ発ス。

(玉虫左太夫著「航米日録」/沼田次郎校注『西洋見聞集』所収)



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