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テーマ別解説

レジャーとビール

(5)野球場でのビール販売スタート
日本初の本格的な野球場は、1924(大正13)年に開場した阪神甲子園球場だが、ここでは開場当初からビールが販売された。1937(昭和12)年に開場した後楽園球場では売店のほかに喫茶室があり、ここでもビールが販売された。

野球は当時から人気の高いスポーツだったが、当時の人々はまだ野球を外国のものととらえていたようだ。山口瞳は『江分利満氏の優雅な生活』(1963年刊)で、「昔、一高・三高の定期野球戦があった頃、スタンドに四斗樽を置いて、カルピスの飲み放題を飲ませたという」と母親から聞いた思い出話を紹介している。そして、※1「母のくちぶりや顔つきから察すると、ベースボールとカルピスは、当時のハイカラを代表していたもののように思われる」と、彼にとっても野球は「ベースボール」だったことを明らかにする。野球の人気が全国的に沸騰するのは第二次世界大戦後である。

敗戦からほどなく、1945(昭和20)年のうちにはプロ野球が復活した。翌年には全国高等学校野球選手権が復活する。物資・食糧が不足する中でも球場には代用食の手弁当を携えた人々が集まってきた。前掲の『江分利満氏の優雅な生活』には、1954(昭和29)年に中学時代の同級生に再会したら、全員が終戦直後しばらく何をしていたのかよく覚えていなかったというエピソードがある。そのような虚脱状態にあった国民は、昔と変わらぬ球音に引き寄せられたのであろう。球場の外にはアイスクリームやサイダーの出店が並んだ。

復活した野球場の一方で、その内情は球団も球場も財政難に苦しんでいた。後楽園は戦後すぐに食品販売を増収のポイントと見て、球場の売店や食堂を自社営業に切り替えた。1948(昭和23)年には球場外にも後楽園ティーガーデンを開設した。初めは物資統制のために売店に並べられる品物が少なかったが、のちには大成功をおさめ、他球場に影響を与えることになる。

1948(昭和23)年6月、日本初のナイターが横浜ゲーリック球場(現・横浜スタジアム)で行われた。飲食店でのビール販売が解禁になったのは翌年のことである。『ベースボールマガジン』1949(昭和24)年9月1日号によると、同年夏、野球終了後は「都内のビアホールは愚試合のお口直しにうがいをする人で満員となった」という。

また同じく1949(昭和24)年の10月、アメリカのニューヨーク・ヤンキース傘下の3Aチーム、サンフランシスコ・シールズが来日し、親善試合を行った。このとき進駐軍は球場内でホットドックやコカコーラ、ポップコーンなどを観客が自由に買えるように手配し、アメリカのスタンドの雰囲気を再現した。食糧事情はだいぶ改善しつつあったが、輸入食品はまだ身近な存在ではなかったため、日本人の観客を大喜びさせた。

翌年、夜間照明設備を完成させた後楽園球場はアメリカのスタイルを取り入れ、売店でホットドッグや生ビールを販売した。生ビールの値段は一杯100円で、庶民にとって安いとはいえなかった(当時の平均月給は9,687円)。しかし、多くの観客がビールを購入し、「スタンドはすっかりほろよい」、「赤ちゃん連れの妻君に、一杯きげんのご亭主が、野球の註訳をしながら観戦」(『野球界』1950年9月1日号)という状況だった。

また、後楽園球場は同年8月下旬にビール会社とのタイアップで、「ハッピー・ビアナイター」と称するイベントを開催した。第1試合と第2試合(当時はデイゲームとナイトゲームを同じ球場で行った)の合間に、ダンスのショーを見せ、また係の者が投げたボールをキャッチした人々にビール(子どもにはサイダー)をサービスするという催しであった。その効果は大きく、期間中の後楽園球場は超満員となった。

〈引用〉※1 山口瞳著 「江分利満氏の優雅な生活」1963年刊行 筑摩書店

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