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酒・飲料の歴史 飲みものの歴史 酒・飲料の歴史 飲みものの歴史

紅茶の話

第6話 日本の紅茶史

1 鎖国・日本と茶
日本で最初に紅茶を飲んだのは「伊勢の船頭」?
広重『富士三十六景 駿河』

光太夫らをのせた神昌丸は駿河沖で暴風雨に見舞われ、そのまま七ケ月も太平洋をさまよったあげくに、アラスカとロシアの間まで流された。
(広重『富士三十六景 駿河』より)

大黒屋光太夫

伊勢の船頭だった大黒屋光太夫(1751-1823)。
ロシアへ漂着後、ひょんなことから豪商に間違われ、上流階級の人々に助けられる。帰国後の記録には、ロシア人は茶に砂糖とミルクを入れて飲むと報告。日本人として最初に「紅茶」を飲んだとされている。


7世紀に遣唐使によって茶が持ち帰られて以来、日本には古くから喫茶の風習がありました。しかし紅茶が歴史に登場するには江戸時代を待つことになります。日本で最初に紅茶を飲んだとされるのは、天皇でも将軍でもなく、意外なことに伊勢の船頭「大黒屋光太夫」でした。1782年(天明2)年12月、伊勢の白子港(鈴鹿市)を出航し、江戸を目指した光太夫の輸送船は、駿河湾沖で暴風雨に遭遇。船はロシアとアラスカの間にある島に漂着し、先住民族やロシアの狩猟団に助けられ九死に一生を得ます。船積みの荷物の雛人形や錦の衣装、陶器や金銀の豪華さや、ロシアでは船長・航海士は上流階級であったことから、身分ある富裕商人と誤解された光太夫は賓客として扱われ、やがて時の皇帝エカテリーナII世に日本への帰国を直訴するチャンスが訪れます。当時、金銀が豊富な裕福な国だとされていた日本は、ロシアにとっても魅力的だったのでしょう。女帝は光太夫を何度も宮中に招待し、日本について語らせました。これらの招きの中には、お茶会もあったであろうと思われます。記録は残されていませんが、光太夫は皇太子の誕生会などの晩餐会に出席しており、紅茶に出会う機会はあったことでしょう。

帰国後の回顧談『北槎聞略(記録は桂川甫周)』には、花柄の描かれたティーカップ&ソーサー、ポットのような茶器の絵図と共に、下記のような報告があります。

<茶はトレツコイ(トルコ)とキタイスコイ(中国)より来る。銀の壷にのみぐちをつけたる器に入れ、熱湯をさし泡茶(だしちゃ)にして飲む。是にも多く砂糖、牛乳を加ゆるなり>
『北槎聞略(亀井高考校訂/岩波文庫)』より

さらに、ロシアでの茶の価値は「百匁にて銀一枚より五枚に至る」と極めて高価なものであったと言い、それを購入できない者は「蓮苺(くさいちご)の葉を乾かして茶にかへ用ゆ」とも付け加えています。

帰国が許された光太夫のもとに届けられた餞別の品の中に、金のメダルや金時計と共に砂糖や茶があったことからも、光太夫が上流階級の人々との交流の中で茶をふるまわれたことは間違いないでしょう。

広重『富士三十六景 駿河』

光太夫らをのせた神昌丸は駿河沖で暴風雨に見舞われ、そのまま七ケ月も太平洋をさまよったあげくに、アラスカとロシアの間まで流された。
(広重『富士三十六景 駿河』より)

大黒屋光太夫

伊勢の船頭だった大黒屋光太夫(1751-1823)。
ロシアへ漂着後、ひょんなことから豪商に間違われ、上流階級の人々に助けられる。帰国後の記録には、ロシア人は茶に砂糖とミルクを入れて飲むと報告。日本人として最初に「紅茶」を飲んだとされている。



コラム


万全の防寒具をまとって帰路に向かう光太夫。馬には「茶と砂糖」が積まれた。

女帝に帰国を許された光太夫は、金のメダルや金時計と共に沢山の茶と砂糖などの餞別を貰います。帰国の出発地オホーツクに向けての旅の途中も光太夫は茶を飲んだと思われます。ヤコーツカ(ヤクーツク)に向かう様子を光太夫は「食物は皆馬に乗せ、茶と砂糖を多く貯へ、砂糖は袋に入、たへず腰につけ、渇する時はこれを含みて喉をうるほし、食物は麦の焼餅、飲物は水をもとめて飲む也」と報告しています( 『北槎聞略』 より)。上流階級の人々に助けられた光太夫は早くからロシアの茶と砂糖に親しんでいたと思われます。無事に生還できた光太夫は、幕府に引き取られてからは外界とあまり接触ができず、日本で唯一ロシアの上流階級と深交をもった功労者であったにも関わらず、その存在、武勇伝は久しく語られることがありませんでした。1892(明治25)年、石井研堂が『日本漂流譚』として光太夫を紹介してから、徐々にその存在が知られるようになります。下の挿絵はその研堂の著書より、ヤコーツカへ向かう場面。
ヤコーツカへ向かう場面

資料提供:大黒屋光太夫記念館(鈴鹿市教育委員会)


ワンポイント豆知識


11月1日の「紅茶の日」は最初に紅茶を飲んだとされる光太夫にちなむ。

現在、紅茶を楽しむ日として親しまれている11月1日の「紅茶の日」は、大黒屋光太夫がエカテリーナ女帝に謁見した際に、正式なティーパーティに招かれた最初の日本人であったのではないか、という伝承に由来して設けられた記念日です。1983年(昭和58)年に日本紅茶協会が策定しました。この日は現在でも紅茶を楽しむ日として多くの人に親しまれています。この後、アメリカの領事ハリスが日本へ献上しますが、それ以前に、光太夫は茶と砂糖を飲用していることにちなんでいます。
帰国した光太夫とロシア使節一行

資料提供:大黒屋光太夫記念館(鈴鹿市教育委員会)
帰国した光太夫とロシア使節一行(右から二番目が光太夫、一番左が命の恩人のうちの一人、使節アダム・ラクスマン)、彼らロシア人たちは、鎖国後の日本に訪れて交易を求めた最初の外国人となった。


日本に紅茶をもたらしたアメリカからの「黒船」
タウンゼント・ハリス

幕府に紅茶を献上したアメリカ総領事ハリス

大黒屋光太夫の日本送還は、日本との国交を望むロシアにとっても意味のあることでした。当時、鎖国体制の日本は海外からの入港を制限しており、それは、日本人であっても一度出国してしまった者は戻れないという厳しいものでした。ロシア皇帝からの使節ということで、江戸幕府は特例として光太夫を迎え入れたもののロシアの使節団は門前払いし、ロシアとの国交はなりませんでした。帰国後の光太夫は、ロシアでの見聞や知識を、幕府の役人や蘭学者へと伝え、日本の海外研究に大いに貢献。知識人との交流の様子も伝えられています。

光太夫の帰国から61年の後、いわゆる「黒船来航」と呼ばれるアメリカの来航は、日本の紅茶史、ひいては清涼飲料の歴史にも大きな影響を与えることになります。

1853(嘉永6)年のペリー率いる黒船来航の翌年、日米和親条約が締結されます。さらに初代駐日領事としてタウンゼント・ハリスが派遣され、日米修好通商条約が結ばれます。この締結をもって日本は開国、本格的に海外との交易を再開することになるのです。

領事として下田に滞在したハリスは、日本文化に触れ、その中には茶を通じた交流がありました。ハリスが持参した幕府への献上品の中に紅茶があったという記録がありますが、最近では、幕府側が催した茶会にハリスが招待されていたということも分かってきました。その茶会は、懐石料理から始まる正式なものでしたが、供された茶は抹茶ではなく煎茶だったということです。通訳が「日本では身分の高い者が、同様に身分の高い者を迎えて深い敬意を示そうとする際には、お茶をいれてもてなすのが習慣である」と伝えると、ハリスは深い感銘を持って、見事に飲み干して応えたとされています。

タウンゼント・ハリス

幕府に紅茶を献上したアメリカ総領事ハリス


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