その「応援」が力に。元日本代表宮本恒靖さんと語る日本サッカーとキリンの44年

キリン公式noteより(公開日2022年6月2日)

今では多くの人たちに喜びをもたらす存在になった「サッカー日本代表」。とはいえ、そんな日本のサッカーには、長きにわたる“冬の時代”がありました。

日本サッカーの発展を担ってきたJFAと、まさに冬の時代まっただ中の1978年から日本代表を協賛し続けてきたキリン。そんな両者が共同で、これまでの歩み、そしてサッカーならではパワーをお伝えするnote連載#サッカーがつなぐもの新しいウインドウで開きますがスタートしました。

映えある第1回は、長きにわたり日本代表のキャプテンを務め、現在JFA理事(会長補佐、国際委員長)の宮本恒靖さんと、“勝ちT”をはじめ数々のサッカープロモーション企画に携わり、現在はキリンのサッカー関連の責任者、キリンホールディングスブランド戦略部長今村恵三による対談です。

宮本さんは言います。「もしキリンがいてくれなければ、日本サッカーはまったく違うものになっていた」と。

「日本サッカーの発展」と「キリンの応援」の歴史について熱く語り合いました。

【プロフィール】宮本恒靖

1977年生まれ。大阪府出身。同志社大学経済学部卒。1995年にJリーグ・ガンバ大阪とプロ契約。2000年より日本代表に選出。 長きにわたり日本代表のキャプテンを務める。 2013年、日本人元プロ選手として初めてスポーツ学の大学院「FIFAマスター」を修了。2018年から2021年までガンバ大阪の監督を務める。2022年3月よりJFA理事(会長補佐、国際委員長)に就任。

【プロフィール】今村恵三

1993年にキリン・シーグラム株式会社入社。1998年よりキリンビール株式会社営業開発部を経て、2008年よりマーケティング部の『一番搾り』ブランドマネージャーとなり、サッカー日本代表の「勝ちT」や「デザイン缶」などのキャンペーン企画リーダーも担当。ビール類カテゴリーマネージャーを経て2021年よりマーケティング部部長に。2022年3月よりキリンホールディングス株式会社ブランド戦略部長。

冬の時代を経て、Jリーグ開幕

―キリングループがサッカー日本代表の支援を始めたのは、日本サッカーがまだ“冬の時代”だった1978年のことでした。当時のサッカー界は、どんな状況だったのでしょう?

今村:当時はまだプロリーグがなく、野球と比べるとサッカーはマイナーな存在でした。試合をしても、お客さんがほとんど入らない時代が長く続きました。キリンがご支援を始めたのも、当時JFAの専務理事だった故 長沼健さんがキリンビールを訪れた際に、「なかなかサポートしてくれる企業がない…」と陳情されたのがきっかけと聞いています。

また、当時日本サッカーは海外の強いチームとなかなか対戦できず、国際経験の場が不足していました。そこで日本代表の強化を目的に、海外チームを集めて定期的な国際大会として1978年より開催されていたのが「ジャパンカップ」です。キリンは“大会を協賛”として関わってきました。その後、名前を変え、現在の「キリンカップサッカー」「キリンチャレンジカップ」へとつながっています。

―宮本さんは小学校5年生の時にサッカーを始めたそうですが、きっかけは何でしたか?

宮本:それまでは野球が好きだったんですが、1986年のワールドカップでマラドーナが大活躍するのを見て、自分もサッカーをやってみたいと思って始めました。それと当時人気だったアニメ『キャプテン翼』の影響も大きかったですね。

―当時のサッカー環境は、いかがでしたか?

宮本:
今より芝のグラウンドが圧倒的に少なく、練習も試合も土の上でやるのが当たり前でした。だからスライディングなんかをすると、足がズルズルっと擦りむけてしまって(笑)。

サッカーを始めてからは、それこそキリンが協賛する国際試合をよく観るようになったんですが、特に1991年のキリンカップサッカーが印象に残っています。日本代表にはカズ(三浦知良)さんやラモス(瑠偉)さんがいて、イングランドの名門 クラブチーム「トッテナム・ホットスパー」にも圧勝していたのが衝撃でした。

当時はフィールドプレーヤーからゴールキーパーへのバックパスがまだ禁止されておらず、カズさんやラモスさんがボールをゆっくり回し、相手がきたらバックパスしてキーパーがキャッチするという、今ではありえないシーンも普通に見られました。

今村:そして、日本サッカーの発展を語るうえでなんといっても大きかったのが、1993年のJリーグ開幕ですよね。

宮本:間違いありません。開幕セレモニーで川淵三郎チェアマン(当時)が開幕宣言のスピーチをした時、いよいよ新しい時代の幕が開けるんだと感動しました。あの場面は今見ても、心が揺さぶられます。

―子どものころからサッカーをしてきたプレーヤーにとって、Jリーグの開幕はどんな意味がありましたか?

宮本:まだJリーグのなかった中学時代の進路相談では「将来はサッカーの社会人チームでプレーします」と言っていました。それが、プロリーグができたことで、当時高校2年生だった僕は「サッカーが職業になった」と感じるようになりましたね。

右肩上がりに成長し、最高潮の盛り上がりに

今村:1993年というのは、ちょうど私がキリンに入社した年でもあります。私にとってJリーグは、企業色の強かった他の社会人スポーツと違い、各チームがその地域に根ざしてやっていく姿勢を強く感じ、とても新鮮でした。

本当にJリーグの開幕以降、日本のサッカー熱が一気に高まりましたよね。周りのみんなが、どこのチームを応援しているとか、あの選手がすごい、この前の休みの日に観てきたなどなど、サッカーの話を熱く語るようになりました。

そこに1993年10月、日本があとちょっとのところでワールドカップ出場を逃した“ドーハの悲劇”が起こりました。その4年後の1997年11月、苦闘の末に “ジョホールバルの歓喜”で、日本代表は初めてワールドカップに出場。こうしたドラマチックな展開も、多くの人たちをサッカーの虜にしたのかなと。かくいう自分も、本当に熱くなりましたね。

そして宮本さんといえば、2002年のワールドカップ日韓大会ですよね。あのときは、初戦の4日前の練習試合で鼻を骨折されてしまっていましたね…。

宮本:はい、それで急遽フェイスガードを作っていただき、それを着けて出場することになりました。とはいえ、気後れや迷いはなかったですね。たとえ痛かろうが、とにかくやるしかないという気持ちが強かったです。
ちょうどJリーグが開幕して10年目で、この大会で結果が出るかどうかで、今後の日本のサッカーが変わるだろうというプレッシャーや使命感みたいなものがあったんです。

―やはりプレッシャーがかなり大きかったのでしょうか?

宮本:ネガティブなプレッシャーよりも、みんなが期待してくれる中でそれに応えたい前向きな気持ちが強かったですね。その点、自国開催のアドバンテージがすごくありました。日本中の人が応援してくれ、そういう前向きな雰囲気を作ってくださったなと。

それと、チーム内の雰囲気も大きな力になりました。スタメンではなかったゴン(中山雅史)さんや秋田(豊)さんは、試合の翌日とかに練習試合でコンディション調整をしていたんですが、それを彼らは「裏ワールドカップだ」と言ったり(笑)、「いつでも完璧に準備しているから、おまえらが怪我したらすぐ入れるぞ!」といい感じであおってくれて。

そうしたメンバーの空気もあって、チーム全体がすごく一体感を持って大会に臨めました。監督のトルシエも、そういったことまでを見越して選手を選んでいたと思います。

今村:チームの一体感が、観ている私たちにもよく伝わってきました。

宮本:あの大会を含め、1990年代後半から2000年代中頃にかけての日本代表はひたすら右肩上がりに成長していった時代で、それにつれてサッカー人気も最高潮に達した感があります。自分も選手として、かけがえのない経験をさせていただきましたね。

手間を惜しまず実現した伝説キャンペーン

宮本:以降も日本代表はワールドカップに出場し続けますが、2006年グループステージ敗退、2010年ベスト16、2014年グループステージ敗退、2018年ベスト16と、大会ごとに結果が入れ替わる形になりました。親善試合の視聴率も、一時期少し落ち込んだ時期がありましたが、近年はまた盛り返してもいます。そうやって上がり下がりを繰り返しつつも長い目線で見れば、キリンさんの尽力もあり、日本サッカー界は確実に底上げされ続けていると感じます。

今村:海外のチームで奮闘する“海外組”の日本人選手も、20年前に比べると飛躍的に増えましたよね。おっしゃる通り、上がったり下がったりしているように見えつつ、俯瞰してみれば着実に成長し続けているのは、間違いなく日本サッカー界が誇るべきことだと思います。

―そうした日本サッカー界の何十年にもわたる成長をキリンは後押ししてきたわけですが、とくにどんなサポートが大きかったと思いますか?

宮本:選手目線でいえば、まずは試合や練習でキリンの飲み物をたくさん提供いただけることですね(笑)。その場で飲むのはもちろん、部屋にもたくさん持ち帰らせていただきました。また、選手としてキリンとJFAのロゴが入ったユニフォームを着る瞬間は、「代表チームに選ばれたんだな」という実感につながりましたね。

それとなんといっても大きいのは、やはりキリンチャレンジカップやキリンカップサッカーといった、キリンが協賛する強化試合の数々です。2002年大会での躍進も、急にパッと起こったことではなく、それこそキリンが1978年から強化試合を組んでくださってきた歴史の積み重ねで実現したことですし、アンダー世代の代表チームへのサポートを続けていただいたことも非常に大きいと考えています。

宮本:たとえば私が1993年にU-17の代表として海外遠征したときは、2002年のワールドカップを日本に招致するキャンペーン用のワッペンがユニフォームについていました。そうした遠征も、キリンのバックアップで実現したものですし、それが自国開催にもつながっているわけです。

ちなみに私が日本代表としてデビューしたのが、2000年のキリンカップサッカーのボリビア戦でした。すごく暑い6月の横浜国際総合競技場での試合で、後半頭からの途中出場でしたが、選手として新しい大きな一歩を踏み出せた気がして、感慨深かったです。

今村:ありがとうございます。そうした強化試合の協賛に加え、キリンでは1998年ごろから、サッカー日本代表の権利を活用したデザイン商品やキャンペーン展開にも力を入れてきました。たとえば2002年より開始した「勝ちT」キャンペーンです。これは、キリン製品を購入すると複数パターンあるオリジナルの青い応援Tシャツが当たるもので、2002年のときは、「デザインパターン計30種類・合計110万人に当たる」という大規模なキャンペーンとなりました。

2002年に開催された日本代表応援「勝ちT」プレゼントキャンペーンのポスター

こうした企画は、オペレーションの手間などを考慮して最終的には予算が削られてしまうことが多いのですが、勝ちT企画は予算が削られることなく遂行され、当社でも伝説のプロモーションといわれています。実際、ものすごい数の応募もいただきました。サッカー日本代表をサポートしていることを誇りに感じる社員が多いからこそ、実現した企画なのかなとも思います。

私も2008年からこの勝ちTキャンペーンや、缶製品にサッカー日本代表のデザインを施した「サッカー日本代表応援缶」などのプロジェクトに、チームリーダーとして長く関わってきました。

2013年に発売された『一番搾り』『淡麗グリーンラベル』のサッカー日本代表応援缶

宮本:日本代表にとって貴重な強化の場を生み出し続けてくださったことや、キャンペーンを通してシーンを盛り上げ、ファンの裾野を広げ続けてくださったことには、本当に感謝しかありません。

サッカーを通じて人と人をつなぎ、心を笑顔に

―なぜキリンは、サッカー日本代表を応援し続けるのでしょう? 背景には、どんな想いがありますか?

今村:キリンがサッカーを応援する根底にあるのが、「サッカーを通じて、人を応援したい」という想いです。

サッカーには、誰かと一緒に喜び、心を笑顔にする稀有な力があります。だからこそサッカーを応援し、人がつながれる場面を増やし、できるだけ多くの心を笑顔にしたい。サッカーの熱心なファンから、少し興味を持っている人、そしてこれから興味を持つかもしれない人を含めると、その数は何千万人にも及びます。私たちの活動は、そうした方々の心をどれだけ喜ばせられるかのチャレンジなんです。

実はキリングループ自体が、「よろこびがつなぐ世界へ」というスローガンを掲げています。これを噛みくだけば「よろこびは人や社会をつなぐ根源的な力になる。だからこそ人を励まし、よろこびをつくり、良い連鎖を生んでいこう」といった意味合いになります。

つまりは、サッカーに対するご支援も、キリングループとしての事業も、目指すところは同じなんですよね。

宮本:長年サッカーに携わってきた者として、「サッカーは人をつなげる」というお話に、とても共感します。根本には、サッカーの喜びが、ある特定の瞬間に凝縮されていることがあるのかなと思います。ゴールをはじめとするいくつかの瞬間に、爆発的な喜びがやってくる。ときには鳥肌が立ち、涙腺が緩む。心が揺さぶられ点では芸術作品などにも通じますが、サッカーはそれがある瞬間に突然、ものすごいレベルでやってくるのが特徴です。

日常で思わず声をあげてしまうことって、そうそうないですよね。それがサッカーでは、思わず声をあげてしまうことが起きる。そして、同じ場面を目にした多くの人が、同じ瞬間に、同じように心を揺さぶられる。だからこそ、人と人がつながれるのではないでしょうか。

今村:おっしゃるとおり、あの爆発的な喜びがあるからこそ、ふだん話さない人とも話せるし、ハイタッチやハグだってできるんですよね。

コロナ前は、当社の社員が何百人と集まって、一緒に代表戦を観戦することがよくありました。社員同士ですから、本来は仕事のつながりで集まっているのですが、観ているうちに熱くなり、いつの間にかみんな「素」の飾らない状態で応援している。そうして、役職を超え、話したこともないような人と喜び合い、ハイタッチし、語り合ったりする。そういう場面を見ると、そもそもキリンの社員自体がサッカーを通じてつながり合い、笑顔になっているんだなと実感します。

宮本:お話を聞いていて、キリンさんにはサッカーを通じて一緒に喜び、笑顔になる文化が土壌に染み込んでいることが伝わってきましたし、あらためてサッカー日本代表の「パートナー」の名がふさわしいなと感じました。

スタジアムに閑古鳥が鳴いていた1978年当時から支えてくださり、それが日本サッカーの大きな原動力になってきました。もしキリンさんがいなかったら、日本サッカーはだいぶ違うものになっていたでしょう。そのことを、もっと多くの人に知ってもらいたいと、あらためて思いました。

この先も日本サッカーが、たとえ浮き沈みはあったとしても、これまでと同様、着実に成長していけるように。そして「2050年までにワールドカップを日本で開催し、優勝する」という日本サッカーの夢を実現するために、今後もぜひお力をいただきたいです。

文:田嶋章博新しいウインドウで開きます
写真:大童鉄平新しいウインドウで開きます

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