「紅茶の日」の由来から「キリン 午後の紅茶」の誕生まで

(公開日2025年10月31日)

「紅茶の日」の由来から「キリン 午後の紅茶」の誕生までをご紹介します。

7世紀に中国から伝来して以降、日本には古くからお茶を楽しむ習慣がありました。では、「紅茶」が日本の歴史に登場するのはいつでしょうか?

日本人として最初に紅茶を飲んだのは、江戸時代の船頭・大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)とされています。大黒屋光太夫は、ロシアで女帝・エカテリーナ二世に接見した記録があり、その際、茶会にも招かれ、紅茶を飲んだのだろうと考えられています。しかし、当時の日本は鎖国の真っただ中。なぜ、江戸時代に船頭が、ロシアで紅茶を飲んだのでしょうか?

日本で最初に紅茶を飲んだ? 大黒屋光太夫の長い旅

1783年、伊勢の白子港(現在の三重県鈴鹿市)を一艘の船が出港しました。船は船頭の大黒屋光太夫ら17人を乗せ、米などを積んで江戸へ向かいました。しかし、その航海中に激しい暴風雨にあい、約7か月も漂流することになってしまうのです。

たどり着いた先は、ロシアとアラスカの間にあり、当時はロシア領だったアリューシャン列島のアムチトカ島。約3800kmも離れた地に来てしまったのでした。

光太夫らはアムチトカの住民やロシアの役人たちによって助けられました。しかし、言葉も通じず、飢えと厳しい寒さの中、仲間たちが次々と病で亡くなってしまいました。約4年をこの地で過ごした後、ロシア人商人の助けを得てカムチャッカ半島に渡ることになりました。

「なんとしても仲間と共に日本へ帰りたい・・・」
そう願う光太夫でしたが、カムチャッカでも仲間が病死し、残った6人でチギリ、オホーツク、ヤクーツクを経て、1789年に大都市・イルクーツクへ辿り着きました。当時のイルクーツクにはすでに、彼ら以前に難破と漂流によってロシア領の海岸に流れつき、救われた日本人たちが何人も住んでいたといわれています。

この地で光太夫は、キリル・ラクスマンという著名な学者に出会いました。それまでの苦難の旅を涙ながらに聞いたラクスマンは、光太夫に救いの手を差し伸べました。帰国願いは一度は却下されるものの、光太夫は女帝・エカテリーナ二世に直接帰国を願い出ることを決意しました。約5600kmもの長旅の末、1791年に光太夫とラクスマンは当時のロシアの首都・サンクトペテルブルグに到着しました。

1791年6月28日、光太夫はついに女帝・エカテリーナ二世との謁見を果たしました。漂流のいきさつと帰国願いを聞いた女帝は「なんと、かわいそうに」と言葉を発し、光太夫に帰国の許可を出しました。日本に興味を持った女帝や皇太子は、その後たびたび光太夫を招いて話を聞いていたそうです。

光太夫はその後、生き残った2人の日本人と共に帰国を果たしました。
約10年ぶりに帰った日本では大騒ぎとなり、江戸で様々な尋問を受けました。故郷では帰らぬ人になったと思われ、墓まで建てられていたそうです。帰国後、光太夫は江戸に住み、やがて結婚して一男一女をもうけたと言われています。

大黒屋光太夫の帰国後、その波乱万丈の旅路を蘭学者・桂川甫周が聞き取り、『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』という回顧録にまとめあげました。残念ながら、その中に光太夫が茶会で紅茶を飲んだ、という記録は残されてはいません。

しかしながら、女帝は日本の話を聞くために、光太夫を何度も宮中に招待したそうで、これらの招きの中には、お茶会もあったであろうと考えられています。帰国が許された光太夫のもとに届けられた餞別の品の中に、金のメダルや金時計と共に砂糖や茶があったことからも、光太夫が上流階級の人々との交流の中で、茶を振る舞われた可能性はかなり高いといえるでしょう。

11月1日は「紅茶の日」。これは、大黒屋光太夫がエカテリーナ二世の茶会に招かれたと考えられる11月、彼が外国の正式な茶会で紅茶を飲んだ最初の日本人とされることにちなんで、日本紅茶協会が定めたものです。

ハイカラの象徴からみんなの飲み物に そして、ペットボトル入り紅茶誕生

大黒屋光太夫の長い旅によって、江戸時代に日本の歴史に登場した紅茶。しかし、紅茶が日本の食生活に馴染むには、それ以上に長い時間がかかりました。

1853年の黒船来航により開国を迫られた日本は、翌年、約200年続いた鎖国政策に終わりを告げます。通商条約が結ばれ、開港された横浜・長崎などの外国人居留地を中心に、西洋文化が広がっていきます。しかし、日本国内では、飲みなれた緑茶への志向が強く、高価で贅沢品の紅茶を飲用するという習慣はしばらく根付きませんでした。多くの日本人にとって紅茶は、特別な場所で飲まれるハイカラな飲み物だったのです。

日本において紅茶が特別な飲み物ではなくなるのは、本格的な紅茶が手軽に淹れられるティーバッグの登場を待たなければなりませんでした。1960年代に発売されると、量産により低価格化が達成されたこともあり、日本の一般家庭に紅茶が普及していきました。さらに、粉末のインスタント紅茶(ティーミックス)の開発や、缶入り紅茶の発売など、紅茶を身近に飲む工夫が生み出されていきました。

そして、さらに身近に、手軽に、本格的な紅茶を味わってほしいという願いから、1986年10月13日、日本初のペットボトル入り紅茶飲料※「キリン 午後の紅茶」が誕生するのです。

  • 株式会社食品マーケティング研究所調べ(1986年当時の主要飲料販売メーカー及び製罐メーカーを対象としたヒアリング調査による)

商品には、「日本にも紅茶の本場イギリスの習慣を根付かせたい」という思いを込めて、英国の習慣であるアフタヌーンティーに由来した「午後の紅茶」を商品名として採用しました。発売直後から大きな反響を呼んだ「午後の紅茶」は、その後も本格的な紅茶のおいしさと、時代の変化を捉えた新たな紅茶の可能性を探究し続けてきました。

紅茶を身近な飲み物にするために、さまざまな工夫が重ねられてきた日本の紅茶の歴史。ペットボトル入り紅茶の提案で、その試みに大きな一歩を刻んだ「午後の紅茶」は、紅茶の幸せを広げるブランドとして、これからも挑戦を続けていきます。

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