キリングループ温故知新 2024年2月編

キリングループは100年を超える歴史の中で、さまざまな環境変化を乗り越え、成長してきました。「キリングループ温故知新」では、これまで発売した商品の誕生や、取り組みについてご紹介します。

昔から今につながるものづくりへの想いと共に、これまで培ってきた知見、研究、技術を活かし、「よろこびがつなぐ世界」の実現に向けて、新たな商品やサービスを提供していきます。

1907年2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

1907年2月23日は、麒麟麦酒株式会社の創立の日。1901年、それまで無税であったビールに「麦酒税」が課されると、中小規模のビール醸造業者の多くが経営困難に陥り、大手同士の競争は激化しました。そうした状況の中、企業合同の構想がなされ、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社の合同により、シェア7割を超える大会社、大日本麦酒株式会社が設立されました。前身会社のジャパン・ブルワリー・カンパニーはこの合同の提案に参加せず、当時のチェアマン兼専務取締役であったフランク・S・ジェームズは、明治屋社長の米井源治郎に対して、会社を操業状態のまま売り渡す交渉を開始しました。香港法人で外国人経営であったジャパン・ブルワリー・カンパニーは、設立当時の日本では外国人居留地外でのビール販売が認められておらず、1888年に一手販売契約を結んだ明治屋が、代理店として国内の販売を担ってきた経緯がありました。(この一手販売契約を結んだ際、明治屋創業者の磯野計の個人保証を引き受けたのが岩崎彌之助でした。)
米井は、当時の三菱合資社長である岩崎久彌にジャパン・ブルワリー・カンパニーを買収し新会社を設立するための支援を求め、三菱から人材と資金援助を得ることに成功しました。岩崎家、三菱合資・明治屋関係者らによって、麒麟麦酒株式会社は創立されました。初代専務には、米井が就任しました。

写真:麒麟麦酒株式会社定款(関東大震災で一部破損)

お酒関連コンテンツ

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2003年2月12日 メルシャン、「本搾り™チューハイ レモン」「本搾り™チューハイ」を発売

2003年2月12日は、メルシャンより「本搾り™チューハイ レモン」「本搾り™チューハイ グレープフルーツ」が発売された日。

当時のチューハイ市場は、2001年の氷結®の発売など各社の活発な商品投入が行われ、規模が急拡大していました。その中でメルシャンは、「糖類・香料・着色料を一切使用しないチューハイ」という新しい価値を打ち出し、明確な差別化を図りました。余計なものを足さず、べたつかない、爽やかな飲み心地を実現させた本搾り™は、居酒屋の手搾りに匹敵する果実本来のおいしさで、チューハイに果実感を期待するお客様の心を掴みました。
2007年にメルシャンからキリンビールに移管され、発売当初からの果実とお酒だけのシンプルな製法を20年以上守り続けています。

写真:発売開始時の商品写真

1998年2月25日 キリンビール、「麒麟 淡麗<生>」を発売

1998年2月25日は、発泡酒「麒麟 淡麗<生>」が発売された日。

これは、キリンビールが初めて本格的に市場に投入した発泡酒でした。キリンビールは、第5次中期経営計画 「ニュー・キリン・ビジョン21(NK21)」の中で、1998年を「新生キリン」スタートの年と位置付け、国内ビール事業の構造改革として、「うまい!キリン」をキーワードにさまざまな新しい活動を行うと発表しました。お客様本位・品質本位の実現を支える柱の一つとして、低価格カテゴリーへの参入を決定します。
バブル経済の崩壊により長期的な景気の停滞が続く日本で、発泡酒は低価格を大きな訴求ポイントとして、97年には前年比約52%プラスの伸長をしていました。こうした背景の中でキリンビールは、商品開発にあたり、国産大麦を副原料に使用することを決定。発泡酒に大麦を使用したのは、国内大手ビール会社としてはキリンビールが初めてでした。大麦にはでんぷん質のほかにコクとうまみに寄与するタンパク質を持っており、味わいに温和さや厚みが生まれました。
新生キリンの自信作として発売された「麒麟 淡麗<生>」。発売時キャッチコピーは、「おいしさでは、負けられない」でした。「麒麟」の文字を大きくあしらったパッケージデザインには、品質へのこだわりと自信が込められました。

写真:発売開始時の商品写真

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