歴史人物伝 歴史人物伝

日本のワインのパイオニアたち

国産ワインのブランド「大黒」葡萄酒を成功させた宮崎光太郎(後編)

甘味ブドウ酒の販売に踏み切り業績を一気に盛り返す
1890(明治23)年9月、甲斐産商店の経営を引き継いだ宮崎光太郎にとって、最初に必要となったのが新たな醸造場だった。自らが目指すワインを造るため、宮崎は祝村の自宅の清酒蔵を改造してワイン醸造設備を整えた。器具への改良も独自に施して、品質のバラツキを抑えることに成功したほか、高価で運搬も不便だったフランス製の鉄製破砕機に替えて、費用がわずか100分の1で運搬も容易な木製の破砕機を考案し、生産効率を一気に上げた。その効率は、6名の人員で1日1万貫(37.5トン)以上のブドウを破砕できるほどであったという。

宮崎は1892(明治25)年、祝村の私邸内に「宮崎第一醸造場」を開設し、500石(約90キロリットル)のワイン醸造と、ブドウ粕を使ったブランデーの蒸留も開始した。こうして、甲斐産葡萄酒の本格的な生産に乗り出す構えだったが、時代の主流は宮崎が製造・販売する純正の生ブドウ酒ではなく、甘味ブドウ酒へと向いていた。東京で長く販売の第一線に立ってきた経験から、この流れに太刀打ちできないと判断した宮崎は、ついに自らも断腸の思いでその製造に乗り出すことを決めた。一貫して生ブドウ酒にこだわり、心血を注いできた宮崎にとっては大きな決断だったが、他社の甘味ブドウ酒が輸入ワインに砂糖や香味料などを加えて甘味をつけたものだったのに対し、甲斐産商店では自家製の純正生ブドウ酒を原料に使って特徴を出していた。1902(明治35)年頃から甲斐産葡萄酒の姉妹品として売り出された甘味ブドウ酒は「ヱビ葡萄酒」「丸二印滋養帝国葡萄酒」「花印スヰトワイン」などの名で市場に広がり、これらが成功したおかげで甲斐産商店は業績を一気に盛り返した。

1904(明治37)年には「宮崎第二醸造場」も新設。この醸造場は現在「シャトー・メルシャン ワイン資料館」として一般公開されており、現存する日本最古の木造ワイン醸造所(場)となっている。
宮崎第二醸造場

宮崎第二醸造場。下屋を持つ長大な土蔵造りの建物で、水路・水車等の設備、半地下式の樽貯蔵庫が備わっていた

シャトー・メルシャン ワイン資料館

シャトー・メルシャン ワイン資料館。旧・宮崎第二醸造場であるこの資料館は、1987年に「山梨県指定文化財」、2007年に「経済産業省 近代化産業遺産」に認定された

地元のブドウ農家との共栄を図る
宮崎の業績の中で、もう一つ忘れてならないのが、ブドウ栽培農家への支援策・救済策である。当時の山梨県のブドウ栽培は食用の在来種を中心としたものであり、ワイン原料に適した外来種は、大日本山梨葡萄酒会社の解散の影響もあって敬遠する農家が多かった。そのため宮崎は、在来種の3倍もの収入を得られることを示し、ワイン原料となる外来種の栽培農家を増やしていった。

しかしその後、日清戦争後の経済の萎縮に伴い、ブドウ酒の売れ行きも伸び悩んだ。多くの醸造業者がブドウの買い入れを控えたことから、栽培農家はたちまち窮地に陥ったが、そんな時にも、宮崎は利害得失を顧みず農家からブドウを買い取り、栽培農家を救済したのだ。こうした人情厚い振る舞いに対し、1897(明治30)年には金盃と感謝状が、1902(明治35)年には再び感謝状が地元の栽培農家一同から贈られている。

また、1912(明治45)年には、醸造場と隣接するブドウ園とを観光施設「宮光園」として公開、翌年の国鉄中央本線勝沼駅(現在のJR勝沼ぶどう郷駅)開業にあわせ、ブドウ狩りとワイン醸造場見学を行う観光事業を企画するなど、観光事業にも積極的に取り組み、現在の勝沼地域の観光ブドウ園の先駆けとなった。ブドウ棚の下にテーブルと椅子を置く観光ブドウ園のスタイルは、宮光園から広まったといわれている。宮光園と甲府市北部の御岳昇仙峡とをセットにした1泊2日の旅行を企画して、記念写真帖を発行したりもしている。

宮光園には大正から昭和初年にかけて、多くの皇族・賓客や著名人が来園するなど、山梨県下の産業施設としても代表的なものの一つとなった。
宮崎第一醸造場へのブドウ搬入の様子

宮崎第一醸造場へのブドウ搬入の様子

大黒葡萄酒株式会社への改組がメルシャン株式会社の礎に
1919(大正8)年、宮崎は東京・下落合にブドウ酒工場を新設した。しかし1927(昭和2)年の金融恐慌、1929(昭和4)年の世界恐慌のあおりを受けて日本が昭和恐慌へと突入する中、甲斐産商店も経営不振に追い込まれていく。こうした状況下、大黒天印甲斐産葡萄酒の特約店やアルコール供給会社との協議を重ね、1934(昭和9)年、甲斐産商店を資本金32万円の「大黒葡萄酒株式会社」へと改組。徐々に経営の立て直しにも成功した。この大黒葡萄酒株式会社が、のちにオーシャン株式会社に改称され、現在のメルシャン株式会社のルーツの一つとなる。

宮崎光太郎は1947(昭和22)年、85歳で亡くなったが、その一生はすなわち日本ワインの歴史そのものだったともいえる。
彼の生涯を振り返ると、宮崎には卓越した経営手腕や宣伝の才だけでなく、ワインさらには勝沼の地に対する熱い情熱とが備わっていたことがうかがえる。これらが「大黒天印甲斐産葡萄酒」を当時の日本屈指のワインブランドへと発展させる原動力となったのである。
昭和初期の甲斐産商店の商品群

昭和初期の甲斐産商店の商品群


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