第13回 “学問の神様”菅原道真と梅干の天神様

日本独自の伝統食・梅干

 梅干は、弁当やおにぎりの具として、日本人なら馴染み深い漬物である。梅干の写真や絵を見るだけでも、そのすっぱさを想像して、ついつい口の中に唾が湧いてくる―そういう方も多いだろう。
 一口に「梅干」といっても、その材料も種類も地域ごとに違いがある。例えば東北や北海道では、気候の問題で梅の木の栽培ができない地域があるため、代わりにスモモやアンズの実が使われている。甲州や信州では、熟す前の小梅を漬け、しっかりとした歯ごたえが魅力のカリカリ漬けがつくられている。これも地域独特の梅干といえるだろう。
 このように様々な種類がある梅干だが、そのつくり方は次の通りだ(社団法人共済組合連盟発行「共済新報12月号」(第42巻 12号)所収『梅干の文化史(2)』有岡利幸著による)。まず、黄色く熟す前の青梅を一昼夜水であく抜きしたら、塩をまぶして、10~15日ほどかめに漬け込む。この時、梅と塩の割合は梅一升あたり塩を三合程度。塩漬けが済んだら、梅と梅酢を分けて取り出し、梅を数日間日光で乾燥させる。このとき、まんべんなく日光が当たるように、実をひっくり返すことも重要である。やがて茶褐色に変化してきたら、さらに三日三晩をかけて夜露にさらす。これを三日三晩の土用干しと呼ぶ。その後、梅の実を容器に入れシソの葉と一緒に漬け込み、梅酢を注ぎ込む。すると、乾燥していた実が漬け汁を吸収し柔らかくなり、ようやく梅干ができあがる。地域によって多少の差はあれど、梅干はこれだけの手間をかけてつくられているのだ。
 では梅干は、いつからつくられるようになったのか。梅干には、その実をつける梅の木が欠かせない。梅の木は、弥生時代に中国から日本に渡来してきた人々によって伝えられた。その梅の木が日本に根付き、現在のように塩漬けにした青梅を陽光で乾燥させ発酵させる梅干がつくられるようになったのは、奈良時代であるといわれている。
 古代中国の政治史を記した歴史書『書経』を見ると、梅の原産地・中国では、紀元前600年ころには梅漬けの酢をつかった塩梅という調味料が存在していた。また、現存する中国最古の農業書である『斉民要術』には、梅の加工品には烏梅(うばい)・白梅・蔵梅があったことが記されている。
 烏梅は完熟した梅の実を薫製にしてつくられるもので、濃縮されて酸味が強いため、薬用とされていた。白梅は熟した実を塩水につけ乾燥させた食品で、蔵梅は日本でいうところの砂糖漬けのようなものであった。こうしてみると我々が普段食べている梅干は、日本独自のものだということが分かる。

菅原道真肖像(太宰府天満宮 提供)

100年前につくられた梅干でも、梅酢に漬けることで徐々にもとの形にもどり、現在でも食べられるようになるという。常温でも長期の保存がきく梅干は、保存食としても重宝されてきた。

 さて「梅干」という名称についてであるが、宮中に仕えた女官による記録『御湯殿の上の日記』にその記録が残っている。文明10(1478)年の時点では「むめつけ」、明応2(1493)年には「梅つけ」とし、延宝8(1680)年の記では「梅ほし」と記述しており、時代ごとに異なる呼び名の変遷が興味深い。
 とはいえ、当時の梅干は、現在のように広く民衆に知られた存在ではなかった。塩が稀少であった室町期まで梅干は高級品とされてきたのである。しかし、塩が普及するに従い、梅干は民衆に身近なものとなっていったようだ。江戸時代まで下ると、料理本『料理物語』(1643年発行)にうどんの薬味に梅干を使っていた旨が記されており、食物文化をまとめた『本朝食鑑』(1695年発行)にも正月に梅干入りの大福茶が庶民に飲まれていた記述がある。こうしたことからみても、江戸時代には庶民の生活に深く浸透し、各地域で冒頭に挙げたような多彩な梅干のバリエーションが生まれたのであろう。

道真と梅の深い繋がり

 梅干の種の中身を俗称で「天神様」と呼ぶが、その「天神様」とは、平安期に右大臣として活躍し、「学問の神様」として広く信仰される菅原道真(845~903)や、道真をまつる天満宮のことをいう。
 道真は梅にまつわる歌を多く残しており、梅を愛した人物として有名である。彼の邸宅は紅梅邸・白梅邸と称されるなど、梅にかかわる数々のエピソードも残されている。
 歴史や漢文学を教える最高位の学者・文章博士(もんじょうはかせ)であった菅原是善(812~880)の三男として生まれた道真は、早くから学問を仕込まれて育った。その学問の才は群を抜いており、11歳の時には、のちの自選作品集『菅家文草』にも含まれる下記の名歌「月夜見梅花」を詠んでいる。

月夜見梅花
 月耀如晴雪
 梅花似照星
 可憐金鏡轉
 庭上玉房馨

(月が輝き、晴れわたった日の雪面のように明るい。梅の花は空で照る星のようだ。金の鏡のような月の光がきらめき、庭には玉の房のような梅のいい匂いが漂っている)

梅をこよなく愛した道真の思いは、「飛梅伝説」を生んだ。道真が自邸の梅に別れの歌を詠み左遷先の大宰府に向かうと、梅がその後を慕って一夜のうちに大宰府まで飛んできた―というものだ。現在、太宰府天満宮には御神木として、この「飛梅」が祀られている。梅と道真の強い結びつきから、こうした伝説が生まれ、いつしか梅と道真が結びつけられ、梅干の種までもが天神様と呼ばれるようになったのだろう。(太宰府天満宮 提供)

 彼が勉学に励んだ自宅の庭にはたくさんの梅が植えられていたというから、物心つくころから梅と身近に接し、その花を歌の題材としたのであろう。
 成長した道真は、およそ200年間のうち65人しか合格できなかった最高位の国家試験・方略試に26歳で合格する。時の宇多天皇(867~931)の厚い信任を得て栄達を続け、899年には右大臣にまで昇進。絶頂期を迎える。
 しかし、当時国政の中心で絶大な権勢を振るった藤原氏にとって、天皇に重用され政治に口出しする道真は目障りな存在であった。結果、道真は左大臣・藤原時平(871~909)らの工作によって右大臣の職を解任され、九州の大宰府に左遷されてしまう。道真57歳のことであった。その際に、自宅の梅の木に哀別の思いを詠んだのが、有名なこの歌である。

「こちふかば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな」
(春の東風が吹いたなら、その風に託して香りを届けておくれ。主人がいなくなってしまっても、春を忘れて咲くのを忘れてはいけないよ)

 慣れ親しんだ都を遠く離れ、59歳になった道真は左遷先の大宰府で失意のうちに死去している。道真が最晩年にまとめた歌集『菅家後集』には絶筆が残されているが、最後の作品「謫居春雪」もまた梅を詠んだ歌であり、道真の生涯を通しての梅への愛情は一貫していた。
 道真の死後、都では政敵であった時平が急死するなど藤原一族に不幸が相次いだ。加えて、暴風雨や大彗星の出現、御所への落雷で死者が出るなど、怪奇現象が続出した。「これらは、失意のうちに没した道真の怨霊による祟りである」と世の人々が考え恐れていたことが、神代から平安期までの歴史をまとめた史料『日本紀略』に記されている。
 朝廷は道真の霊を慰め災厄を免れるため、彼を天満天神として祀ることとした。天神を祀る各地の天満宮には、彼が愛した梅が植えられ、太宰府天満宮や北野天満宮などは、春の訪れとともに多くの梅が咲き誇る梅の名所として今も知られている。
 道真の類い稀な学才からか、天神様は、やがて文学や学問の神としても信仰されるようになった。江戸期の寺子屋では道真の歌や文書が教科書に用いられ、浄瑠璃や歌舞伎の題となったこともあって、天神信仰は深く大衆に根付いていったのである。

今に生きる天神伝承

 ところで、梅干の種の中心部分を「天神様」と呼ぶようになったのはいつごろなのであろうか。江戸時代の半ば、「梅をくふとも種食ふな 中に天神寝てござる」という歌が庶民に語られるようになった。梅の種は食べ過ぎるとお腹によくないと考えられていたため、例えば子ども等が誤って食べてしまわないように、人々は知恵を絞ってこのような歌をつくったのかもしれない。
 人々の天神信仰もあって、道真が愛した梅の種の中に「天神様が宿っている」という伝えは素直に受け入れられたのだろう。
 梅の種を粗末に扱うことのないように、太宰府天満宮には江戸時代に「梅の種納め所」が設けられた。この種納め所は、現在も残っている。