ビールの歴史
酵母は国境を超えて
―E.C.ハンセンによる
「酵母の純粋培養法」

15世紀、ドイツ南部のミュンヘンで誕生したラガー・ビールは、下面発酵が生み出す優れた品質にも関わらず、長いあいだローカル・ビールのひとつにとどまっていた。しかし近代科学の進化とともに、その革新性を見なおす気運が高まると、19世紀半ばから、下面発酵を志す醸造家が現れるようになる。その中心人物が、地元ミュンヘンのシュパーデン醸造所経営者、ガブリエル・ゼードルマイル2世である。

創業者である先代の薫陶を受け、欧州各地で見聞を広め(*1)、近代科学にも精通したゼードルマイルは、近い将来、下面発酵の時代が来ることを確信。当時まだビール後進国であったミュンヘンにあって、蒸気機関や冷蔵技術をいちはやく導入するなど、下面発酵の再興に邁進した。またそのノウハウを惜しみなく公開することで同業者たちとネットワークを形成。ボヘミア地方の「市民醸造所」や、デンマークのカールスバーグ創業者、ヤコブ・ヤコブセンに、門外不出の「ラガー酵母」を提供したのも(*2)、そうした姿勢のあらわれであった(*3)。
こうして、下面発酵を始めたカールスバーグ社は、科学の研究にも力を入れ、1883年、微生物部門のエミール・クリスチャン・ハンセンが、パスツールの理論を応用した「酵母の純粋培養法」を確立。これは、ビールづくりに適した酵母のみを抽出・培養するもので、よりよいビールをつくる酵母が、どこででも手に入るようになるという、夢のような発明であった。

パスツールの「低温殺菌法(パスチャライゼーション)」、リンデの「アンモニア式冷凍機」、そしてハンセンの「酵母の純粋培養法」。のちに「近代ビールの三大発明」と呼ばれるこれらの成果は、結局のところ「ラガー・ビール」の優位性のみを際立たせるものであった。産業革命に湧いた近代という時代。その大きなうねりが、宿命的にラガーを表舞台へと押し上げたのである。すなわちラガー・ビールは、近代という時代そのものであった、ということが言えるであろう。
(*1) 近代ヨーロッパ前編『ビールといえばイギリスのエールだった』参照のこと
(*2) 結果として、ピルゼンもカールスバーグも、ラガー・ビールで大成功をおさめる。その事実をみても、その種馬となった「ラガー酵母」の所有者ゼードルマイルこそ、真の意味での「ラガー・ビールの生みの親」といえるだろう。
(*3) 木元富夫『近代ドイツの特許と企業社活動ー鉄鋼・電機・ビール経営史研究ー』泉文堂P148~P154