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ビールの歴史

ホップの受難

 「ビールの魂」とも称されるホップの発見(*1)。しかしグルート・ビールが主流の時代にあって、革新的ともいえるホップの特性は、にわかに受け入れがたいものであった。とりわけ各地の領主や教会は、種々のハーブを独自に配合したグルートビールから、「グルート権」と称する特許権を発行。醸造業者からの徴税が貴重な財源となっていた。そんな彼らが、自身の利益を脅かす存在として、ホップを警戒したとしても不思議ではない。

グルート権を発行する領主の弁
「ウチの秘伝のグルートが、どれだけ複雑に調合されているかご存じですか。それがホップひとつで用ナシになるなんて、ヒドい話じゃありませんか。グルートの中身? 言えるわけないじゃないですか!」

 領主の発言は想像に基づくことは言うまでもない。しかし、彼らの抵抗によって、ホップの普及が大幅に遅れたことは歴史的な事実である。なかでもドイツ中部に位置するケルンでは、グルート権を発行する司教領主とグルートビール醸造業者の抵抗により、ホップの使用が厳しく禁じられていた(*2)。

 いっぽう自国のビールを誇り高く「エール」と呼ぶイギリスにおいても、グルートビール関係者の強硬な反対により、ホップは「飲物の味を損ない、人を危険な目にあわせるかもしれぬ」として排斥。15世紀に一部で使用が認められたものの、それはエールとは別物の「ビール」であり、伝統のエールには依然としてホップの添加を禁じていた(*3)。

 1516年、ビールの原料を「大麦」「ホップ」「水」に限るとしたビール純粋令が、ドイツ南部のバイエルンで公布される。これによって劇的な改善を果たしたバイエルンのビールはドイツ全土に知れ渡り、それとともにホップも浸透。ケルンでもようやくグルート権が破棄され、ホップの使用が全面的に容認されることとなる。そして根強いエール文化を誇るイギリスでは、17世紀の半ばになって、ついにホップ入のエールが容認。ホップは名実ともに、「ビールの魂」となったのであった。

(*1)鳥山國士・北嶋親・濱口和夫編『ビールのはなし』技報堂出版P25
(*2)村上満『ビール世界史紀行』東洋経済新報社P38
(*3)村上満『ビール世界史紀行』東洋経済新報社P39