ビールの歴史
遅咲きの醸造都市ミュンヘン

世界最大のビール祭り「オクトーバー・フェスト」で知られるドイツ南部、バイエルンの州都ミュンヘン。この地で市民醸造業者が現れたのは13世紀後半のこと(*1)。しかし醸造都市として名声を博したのは、中世も末期となった15世紀半ば以降のことであった。
気候が温暖なドイツ南部は、もともとブドウの産地として知られ、当時の人々はビールよりも安価なワインを愛飲していた。彼らにとってビールとは、バイエルンの王室が、北部からアインベック・ビールなどを調達して飲む、贅沢な輸入品というイメージだったようである(*2)。
また北部のハンザ同盟が市民醸造業で繁栄を極めていたのに対し、ローマにほど近い南部は教会や修道院の影響が強く(ミュンヘンの地名は「修道士」に由来する)、質の高いビールは修道院が独占的に醸造。市民醸造は育ちづらい環境にあった。それでも14世紀末のミュンヘンでは20を超える市民醸造所が存在(*3)。当初は粗悪なビールも横行していたが、ホップの使用とともに品質も徐々に改善されるようになる。
そして1516年、原料を「大麦」「ホップ」「水」に限るとしたビール純粋令が公布される。これによりビールの品質が向上し、「ボック・ビール」と呼ばれるミュンヘン流のアインベックビールは、本家に勝るとも劣らぬ評価を獲得。また1551年の改訂条文では、これまで未知の存在であった「酵母」、そして低温でゆっくり発酵・貯蔵をおこなう革新的な醸造法「下面発酵」が明文化され、今日のグローバル・スタンダードともいえるビールを生み出していくのである。
いっぽうで、これまで影響力を誇示してきた修道院は、16世紀に起こった宗教改革によって権威を剥奪。修道院ビールも時代的な役割を終える(*4)。またビール以上に浸透していたワインも、15世紀半ばからの天候不順と霜害によってブドウ園がほぼ全滅(*5)。バイエルンおよび州都ミュンヘンは、いよいよ世界に冠たる醸造都市として、その後のビール文化を牽引していくのであった。
(*1)木元富夫『近代ドイツの特許と企業社活動ー鉄鋼・電機・ビール経営史研究ー』泉文堂P138
(*2)村上満『ビール世界史紀行』東洋経済新報社P98
(*3)木元富夫著『近代ドイツの特許と企業社活動ー鉄鋼・電機・ビール経営史研究ー』泉文堂P138
(*4)大草昭『ビール・地ビール・発泡酒』文芸社P194
(*5)木元富夫『近代ドイツの特許と企業社活動ー鉄鋼・電機・ビール経営史研究ー』泉文堂P138