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ビールと器

磁器発祥の地マイセン(2)
繊細な絵付と彫刻・造形による
名窯の進化

生みの親であるヨハン・フリードリッヒ・ベトガー亡きあと、マイセンはウィーンからやって来た絵付師ヨハン・グレゴール・ヘロルトによって飛躍的な進歩をとげます。シノワズリの文様や西洋的風景ををモチーフとした絢爛かつ精緻な絵付けは、以後マイセン絵付けの基本となりました。

1719年、オーストリアの都ウィーンは、マイセンからの引き抜き工作によって、ヨーロッパで2番目となる硬質白磁の焼成に成功します。そして翌年には色彩豊かな絵具を開発し、デザイン面ではマイセンをしのぐ急成長をとげました。それを担った絵付師のひとりがヨハン・グレゴール・ヘロルトです。しかし直後にウィーン窯は財政難に陥り、ヘロルトは門外不出の絵具を持ち出してザクセン公国へと渡り、西洋磁器の本家マイセンと契約を結びます。

ヘロルトの天才的な絵付けの技術はマイセンにおいても際立ち、「シノワズリ(中国趣味)」をモチーフとした絢爛かつ精密な筆致は、最大のパトロンである選帝侯アウグスト強王を大いに魅了します。ヘロルトの絵付けがされた磁器は、当時としては柿右衛門様式に次ぐ高価な商品となりましたが、それでも各国の王侯貴族から大量に注文が舞い込み、マイセンは名実ともに本場東洋の磁器と肩を並べることになりました。またヘロルトの作風に合わせるように絵具も進化をとげ、その多彩な色味の調合法は、今も変わることなく受け継がれています。

マイセンが黄金期を迎えつつあるなか、晩年のアウグストの磁器に対する欲望はいよいよ誇大化していきます。その極みが日本宮殿計画で、建物自体を可能な限り磁器で仕上げ、装飾や調度品はシノワズリで埋め尽くすという壮大なものでした。回廊には磁器でできた鳥や動物を並べた磁器動物園をつくることも考えていたといいます。そのためには磁器の彫刻家ともいえる人物が欠かせません。そこで見出されたのが、宮廷彫刻師の助手を務めていたヨハン・ヨアヒム・ケンドラーでした。

さまざまなマイセンの絵柄×2
1731年、マイセンに採用されたケンドラーは瞬く間に才能を開花させ、劇的で躍動感にあふれる動物磁器を次々と製作します。アウグストの壮大な計画は1733年の没後に中止となりましたが、ケンドラーは彫刻という革新をマイセンにもたらし、造形面でも従来の東洋の模倣から、マイセン独自の西洋化へ進めていきました。とりわけ人間や動物の生き生きとした姿を形にした磁器人形(フィギュリン)の数々は、同時代の流麗なロココ文化と重なって、今なおマイセンを代表する作品となっています。