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ビールと器

藍色のルーツは中国の青花磁器にあり

藍色のコバルト顔料で複雑な模様を絵付けした青花磁器は、中国とイスラムの盛んな文化交流から生まれたものでした。コバルトは中国にはなかった顔料で、西のペルシャから輸入されたと言われます。世界中の人々を虜にした青花磁器は、特にヨーロッパ各国では熱狂的な王侯貴族達の間で17世紀の一大ブームとなったのです。

 中国で陶磁器の生産が本格化したのは、9世紀の唐代末期からでした。国内で喫茶の習慣が流行し、青磁、白磁、黒釉磁など多種多彩な器が、国外へ輸出されるようになった時代です。とりわけ、ユーラシア大陸をまたいだイスラム社会との東西交易は、装飾、原料、技法などの交流もおこなわれ、それぞれの工芸文化に刺激を与えることになりました。

 
中国の地図(景徳鎮)

 こうしたイスラム文化との交流が、14世紀中頃の元代に景徳鎮窯で誕生した青花磁器にも大きく影響しています。気品あふれる白磁の輝きに、筆彩による鮮やかな藍色の文様を描いた陶磁器は、これまでの中国にはないものでした。藍色の発色をもたらすコバルト顔料や、磁肌をうめる文様の絵画的な表現は、イスラム社会から伝わったものと考えられています。いずれにしろ、青花磁器は、日本や朝鮮、東南アジア、中近東、そしてヨーロッパにまで広まり、世界中の人々を魅了することになりました。日本では青花を「染付」と呼び、有田焼で盛んに写しがおこなわれたのです。
 明代に入ると、青花磁器は元代の力強い筆致のスタイルから、優美で洗練されたものへと変化します。そして、永楽年間(1403~24)、つづく宣徳年間(1426~35)で頂点を極めました。今でもトルコのトプカプ宮殿や、イランのアルデビル霊廟に、この時代の青花磁器が数多く所蔵されていることは、当時東西交易が益々盛んにおこなわれていた証でもあります。

 そして、特筆すべきはヨーロッパへの輸出です。当初は、一部の愛好家たちの興味の対象でしかなかった青花磁器ですが、17世紀に入りオランダ東インド会社による東方貿易が盛んになると、ヨーロッパにも喫茶の習慣が広まり、それに相応しい茶器として一躍脚光を浴びることになりました。ヨーロッパ各国の王侯貴族は、中国の青花磁器、続いて日本の古伊万里・柿右衛門様式などのコレクションに力を注ぐようになります。やがては、美術工芸全般における東洋趣味が「シノワズリ」と呼ばれ、宮廷社会のステイタスとなったのです。青花磁器がもたらした西洋人の陶磁器熱は、その後18世紀初頭のドイツ・マイセン窯がヨーロッパ初の磁器を生産したことで、ようやく実を結ぶことになりました。