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ビールと器

ビールが喜ぶ!? 備前焼の秘密とは

昔からずっと変わらない「無釉・焼き締め」の技法で「土と炎の芸術」と呼ばれる備前焼。ビールを注ぐと、地肌の細かな土の粒子が反応してクリーミィな泡を発生させるので、陶器ならではの贅沢な味わいになります。時の茶人たちに愛され、桃山時代には茶陶の頂点を極めた窯であり、今も日本を代表する焼物のひとつです。

 岡山県の南端、瀬戸内海に臨む備前地方に窯場が誕生したのは、古墳時代中期(5世紀)に朝鮮半島から須恵器が伝来したことが起因でした。轆轤(ろくろ)で成形し、無釉のまま穴窯で焼き締める「無釉・焼き締め」の技法は、当時は画期的で、全国に伝播していきました。平安末期(12世紀)までは、祭祀に用いられる神器や、貴族や僧侶の日用品として、朝廷や国府に上納されていました。備前の器は、他の産地の器よりも頑丈で色白でキメが細かく、「上手(じょうず)の器」として珍重されていたのです。

 

 しかし、12世紀末に武家政権の鎌倉幕府が誕生すると、須恵器は衰退し、「甕(かめ)」、「擂り鉢」、「壷」など、庶民の生活に根ざした実用的な器の需要が高まりました。素朴で力強く、肉厚で丸みを帯びた造形は、今日の備前焼のルーツになったといえます。そこに、室町末期の村田珠光、桃山時代の千利休や古田織部ら、時の茶人たちが「侘・寂」の精神を見出し、彼らの見立てによって、備前焼は一躍、茶陶を代表する窯場となりました。

備前焼の内側

 桃山時代には茶陶として頂点を極めた備前焼でしたが、江戸時代に入ると茶道の衰退や、華やかさを好む時の流れに押され、近代以降もかつての素朴な味わいを失っていきました。しかし昭和に入り、後に「備前焼中興の 祖」と称される金重陶陽によって、往年の魅力を取り戻し、近代備前の道を拓くことに成功します。藤原啓や、その息子・藤原雄など、優れた作家を多く輩出し、備前焼は広く世界に知られる焼物となって現在に至っているのです。
 「備前すり鉢 投げてもこわれぬ、備前水瓶 水がくさらぬ、備前徳利 お酒がうまい」と謡われるように、備前焼がもつ優れた機能性は大きな魅力です。もちろん、ビールを備前焼のビヤマグに注ぐと、“まろやかでキメの細かい泡が立ち、かつ泡もちがいい”最高の味わいでいただけます。これは備前焼の主原料である「ひよせ」という田土に原因があり、この「ひよせ」は粒子が非常に細かくて収縮力も高く、「無釉・焼き締め」の技法に最適とされています。できあがった備前焼の地肌には微細な気孔が無数にあるので、ビールに触れると豊かな泡を生み出します。これこそが「ビールが喜ぶ器」と称される、備前焼の所以なのです。

備前焼に注いだビール