ビールと器
日本の磁器発祥の地は、
有田・伊万里焼
日本初の磁器を生んだ「有田焼(別名・伊万里焼)」は世界的な名窯です。誕生以来、急速に発展し、世界中で名を知られました。また、有田の陶芸家が生んだ繊細な作風 “柿右衛門様式”は、ヨーロッパ初の磁器を生んだドイツのマイセンや、磁器発祥の地・中国の景徳鎮窯が模倣するほどの影響力をもつ、素晴らしい作品でした。
 陶器よりもはるかに優れた磁器が、日本で初めて誕生したのは江戸時代に入って間もない、17世紀初頭でした。これより先の16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、九州・有田地方の窯場を治める肥前国領主・鍋島直茂は、朝鮮半島から陶工たちを連れて帰り、自国の窯業振興に当たらせていました。その中のひとりが磁器の原料となる長石を発見し、有田で磁器の焼成に成功していたのです。そして、日本初の磁器となる「有田焼」が誕生します。その後、有田焼は出荷する港の名にちなんで、別名「伊万里焼」とも呼ばれるようになりました。
 朝鮮からの伝来により誕生した有田焼(伊万里焼)ですが、日本では以前から中国の青花磁器が浸透していたため、装飾も自ずと青花の写しが中心となりました。こうしてできた日本風の青花を「染付」といい、中でも、この時期の素朴な染付は「初期伊万里」と呼ばれ、また、江戸時代に有田で生産された焼物を総称して「古伊万里」と呼ぶようになりました。


 17世紀半ば、中国では明から清への王朝交代に伴う内乱があり、ヨーロッパへの中国磁器が輸出停止となりました。代わって、有田焼の需要が一気に高まり、急速に発展したのです。この頃には染付に代わり、有田の陶芸家・酒井田柿右衛門が中国の色彩豊かな赤絵(五彩とも)を模した“柿右衛門様式”を生み、やがて、磁肌の乳白色を大胆に生かしたアシンメトリー(左右非対称)な絵柄によって、日本独自のスタイルを築いていきます。そして、ヨーロッパでも高い評価を得て、王侯貴族たちを熱狂させました。18世紀初頭にヨーロッパ初の磁器を生んだマイセンも、柿右衛門の写しから初期の名声を得ており、さらには本家の中国・景徳鎮までが、のちに「景徳鎮伊万里」を生産するほど、有田焼はその名を轟かせていきました。
 このような有田焼の最盛期には、柿右衛門様式の他にも藩御用達として絢爛豪華な鍋島焼も生まれました。しかし、17世紀末に中国が磁器の輸出を再開し、有田焼は主要な市場を失って輸出は減退していきます。代わって国内向けに、庶民でも使用できる安価な磁器を生産するなど、18世紀以降は大きな転換期を迎えました。それでも、日本の磁器発祥の地として、国内外に多くの愛好家をもち、世界的な名窯として今でもその地位を揺るぎないものとしています。