ビールと器
17世紀半ばに生まれた
デルフト・ブルー
17世紀半ば、オランダの街デルフトで生まれた、白地にコバルト・ブルーの鮮やかな絵付けをした「デルフト・ブルー」は、「デルフト焼き」の代名詞として人気を確立します。チューリップや風車など日常の風景も絵の題材にし、同じ頃に活躍したオランダの画家フェルメールの作品にも登場するほど、人々に親しまれていました。
15世紀後半からスペインに支配されていたオランダは、焼き物もイスラム風スペイン陶器の影響下にありました。16世紀に入り、そこへイタリア・ルネサンスの波が伝わります。当時ヨーロッパで屈指の品質を誇っていた「マジョリカ焼き」の陶工たちがアルプスを越えて北上し、フランスやベルギーを経て16世紀後半にオランダ南西部のデルフトに伝わり「デルフト焼き」となったのです。
同じ頃1581年にオランダは独立を果たし、デルフトの陶器作りも活況を向かえました。しかし、この頃はまだマジョリカ焼きの技法そのままの錫釉陶器を製造していました。
1602年、オランダ東インド会社が設立され、スペイン・ポルトガルに代わって海上での権力を握ったオランダにも大量の中国磁器が入ってきます。中国磁器は、白く透き通るような輝きをもち、鋼のように頑強で、たちまち各国の王侯貴族たちを魅了し、この影響でデルフトの製陶業は一時的に経営を圧迫されました。


しかし、1659年に明代末期の混乱で中国磁器の輸入が途絶え、その穴埋めとして明代万暦期の “白地にコバルト・ブルーの絵柄が鮮やかな染付磁器”の模倣に力を注ぐようになります。その結果、錫釉陶器でありながら薄手で、磁器に似た輝きと強度を持つ「デルフト・ブルー」の製造に成功します。これは、デルフト焼きの代名詞として人気を確立し、日本でも「阿蘭陀焼き」の名で珍重されました。そして、この頃からオランダ諸都市の陶芸作品全般を「デルフト焼き」と総称するようになったのです。
その後デルフトは、日本の古伊万里などの写しも製造しましたが、その一方でチューリップや帆船などオランダの風物や人々が暮らす日常の風景など、身近なものも題材にしました。この絵付けの豊かさは、17世紀に最盛期を迎えたオランダ絵画を代表する、デルフト出身の画家ヨハネス・フェルメールの作品にも現れています。彼の作品にはデルフト焼きのタイルや水差しが描かれていて、市民の暮らしに溶け込んでいたことが伺えるのです。
オランダの黄金時代を彩ったデルフトですが、18世紀にドイツのマイセンがヨーロッパ初の磁器製造に成功すると、急速に活気を失います。最盛時に30以上あった工房はポースレン・フレス社(1653年創設)のみとなりました。しかし、19世紀後半にデルフト焼きの再評価がおこなわれ、ボースレン・フレス社はロイヤルの称号を戴いた「ロイヤル・デルフト」と名を改め、今に至っています。