
私たちがサッカー日本代表支援をはじめたのは、1978年。
社会貢献の一環として支援をはじめたのがきっかけでした。
でも、実は「ご近所」だったという偶然の縁もありました。
このページでは、キリングループがサッカー支援を始めたきっかけや、
キリングループの協賛試合である「キリンカップサッカー」
「キリンチャレンジカップ」の発展、サッカー日本代表を
取り巻く環境の変化についてお話したいと思います。
このページでは、キリングループがサッカー支援を
始めたきっかけや、
キリングループの協賛試合である「キリンカップサッカー」
「キリンチャレンジカップ」の発展、サッカー日本代表を
取り巻く環境の変化についてお話したいと思います。
キリンビール本社が原宿(渋谷区神宮前)に
あったころ、
JR山手線を挟んで向かい側にある岸記念体育会館の中に日本サッカー協会があり、
窓からお互いのビルを見渡せる位置にありました。
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1978年のある日、ご近所の挨拶として
当時、日本サッカー協会の専務理事を務めていた
長沼健氏(故人/第8代日本サッカー協会会長)が、
キリンビール本社を尋ねてきます。
1978年のある日、ご近所の挨拶として
当時、日本サッカー協会の専務理事を務めていた
長沼健氏(故人/第8代日本サッカー協会会長)が、
キリンビール本社を尋ねてきます。
長沼専務理事の対応を受けたのは、当時取締役社長の小西秀次でした。
サッカーは今の時代ほどメジャーなスポーツではなかったこと、
また、1970年代はオリンピックにも出場できない“冬の時代”であったこともあり、
「日本ではなかなかサポートしてくれる人がいない」という日本サッカー協会の話を
聞き、キリンとしても“社会貢献”としての活動を模索していた時期でもあり、
そして、なにより「ご近所」という縁を感じ、この話を引き受けます。
そして、同年5月、本格的な国際大会として
“ジャパンカップ”が開催され、スタート時からの支援を行ったのです。
キリンとサッカーの長い歴史はここから始まります。
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1970年代の日本サッカーは、
海外に行っても強いチームには
ほとんど相手にされなく、
国際経験の場がなかった時代。
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そのため、少しでも多くの試合を重ね、日本代表を強化することを目的に、
「ジャパンカップ1978」はグループリーグを戦った後、
グループ上位2位がノックアウト方式を行って順位を決めるスタイルを採用しました。
日本のサッカーファンが初めて本場を味わった「ジャパンカップ1978」。
全15試合で集まった観客は約16万人。
そのため、少しでも多くの試合を重ね、日本代表を強化することを目的に、
「ジャパンカップ1978」はグループリーグを戦った後、
グループ上位2位がノックアウト方式を行って順位を決めるスタイルを採用しました。
日本のサッカーファンが初めて本場を味わった「ジャパンカップ1978」。
全15試合で集まった観客は約16万人。
キリンとしては、日本代表をサポートする以上はロングスパンで
支援を続けようと当時から考えていたと言われています。
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1970年代から続く、
“日本サッカー界にとっての冬の時代”は
1980年代になっても続きます
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当時の日本のサッカー選手はアマチュアで、
サッカー専用スタジアムは、数えるほどしかなく、
サッカー日本代表を強くするためには環境整備は
大きな課題でもありました。
また、“ジャパンカップ”の名称は、
1980年に“ジャパンカップキリンワールドサッカー”に変更、
さらにその5年後の1985年に現在の“キリンカップサッカー“
と名称を変えます。
サッカーは1980年代もあまりメジャーなスポーツ
ではなかったため、
スタジアムは相変わらず満員になることはありませんでした。
当時の日本のサッカー選手はアマチュアで、
サッカー専用スタジアムは、数えるほどしかなく、
サッカー日本代表を強くするためには環境整備は大きな課題でもありました。
また、“ジャパンカップ”の名称は、
1980年に“ジャパンカップキリンワールドサッカー”に変更、
さらにその5年後の1985年に現在の“キリンカップサッカー“と名称を変えます。
サッカーは1980年代もあまりメジャーなスポーツではなかったため、
スタジアムは相変わらず満員になることはありませんでした。
回を重ねる毎に、、世界の強豪クラブや名選手らが参加する
この大会は、
日本サッカー界にとって非常に重要な大会となっていき、
低迷していた日本サッカー界は次の1990年代で大きく流れを変えることとなります。
サッカー日本代表のさらなる強化に向けて、
この頃からアマチュアからプロ化へ動き始めます。
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1980年代まではサッカーはマイナースポーツ
でしたが、
関係者の長年の努力が実り、
1991年に開催された「キリンカップサッカー」
では日本代表が初優勝をしました。
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そして、「キリンカップサッカー」は1992年に
国際Aマッチとなり、
クラブチームではなく、国(地域)を代表するチーム同士の
対戦となったことで
それまで以上に大会が世界から注目されるようになります。
そして、「キリンカップサッカー」は1992年に国際Aマッチとなり、
クラブチームではなく、国(地域)を代表するチーム同士の対戦となったことで
それまで以上に大会が世界から注目されるようになります。
その後、1998年にキリンビールとキリンビバレッジが
日本代表チームのオフィシャルスポンサーとなったことから、
これまでのキリンカップサッカーとは別にキリングループの
冠スポンサーをつけた国際親善試合、
”キリンチャレンジ(キリンビール協賛試合)“と
”キリンビバレッジサッカー(キリンビバレッジ協賛試合)”が
誕生しました。
そしてついに、1998年にフランスで開催された大会に
サッカー日本代表は念願の初出場を果たし、世界に挑戦する夢を叶えます。
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それまで、キリンビールとキリンビバレッジが
協賛する試合を
それぞれ“キリンチャレンジ”、
“キリンビバレッジ・サッカー”として
開催していましたが、
これらをひとつに束ね、全ての試合を
2001年以降
“キリンチャレンジカップ”として
開催するようになります。
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また、この“キリンチャレンジカップ”は、
2000年から日本代表はもとより、U-23日本代表・なでしこジャパン(日本女子)の
国際親善試合もカバーするようになりました。
また、この“キリンチャレンジカップ”は、
2000年から日本代表はもとより、U-23日本代表・なでしこジャパン(日本女子)の
国際親善試合もカバーするようになりました。
その結果、「キリンカップサッカー」と
「キリンチャレンジカップ」の
試合が増え、日本各地で
国際試合が観られるようになりました。
日本のチーム力強化を行ったのです。
2002年には、日本代表は世界でベスト16に入る快挙を
成し遂げました。
世界のひのき舞台で活躍するほどになり、
海外のクラブで活躍する選手が増え始めるなど、
日本選手が世界で通用するほどの力を持ち始めます。
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支援を始めた1978年から40年以上の年月が
経ちましたが、
今や多くの日本人選手が海外のトップリーグで
活躍しています。
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その背景には、どんな逆境でも未来に向かって進んだ
日本サッカー界と、そして何より、サポーター・ファンの
みなさまが応援してくださったからこそ、
現在の日本サッカーがあるのです。
その背景には、どんな逆境でも未来に向かって進んだ日本サッカー界と、
そして何より、サポーター・ファンのみなさまが応援してくださったからこそ、
現在の日本サッカーがあるのです。
過去の歴史において、キリンは日本サッカー協会へこう伝えたといわれています。
「キリンは自分の商売のために応援しているのではなくて、
スポーツ文化を応援している」
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2023年、キリンとサッカーとの関係は新たなステージへ。
1978年より45年を超えて日本代表を応援し続けているキリンは、2023年から「日本サッカー協会オフィシャルトップパートナー」として、「SAMURAI BLUE(サッカー日本代表)」、「なでしこジャパン(サッカー日本女子代表)」、「アンダーカテゴリー日本代表」、「フットサル日本代表」、「ビーチサッカー日本代表」、「サッカーe日本代表」を含むすべてのカテゴリーを応援するとともに、選手育成や指導者養成にも注力するなど、日本サッカー協会のすべての事業をサポートする活動を行っていきます。
また、日本サッカー協会との価値共創による社会課題解決を目指すとともに、持続可能な社会に向け、キリンのCSVパーパスの一つである「コミュニティ」に取り組んでいきます。サッカーを通じて家族や仲間との絆を深める、新たなつながりを生み出すといった、サッカーの持つ“人と人をつなげる力”を広げ、日本中のサッカーファミリーを笑顔にするための取組を全国各地へ展開していきます。
これからもキリンは、「サッカーを通じて人の心を笑顔にする」という想いのもと、サッカーに関わるすべての人たちを応援し続けることで、キリングループのコーポレートスローガンである「よろこびがつなぐ世界へ」を実現していきます。










