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歴史人物伝 歴史人物伝

日本のワインのパイオニアたち

政府のブドウ栽培を主導した前田正名と、陰で支えたシャルル・バルテ

パリ万博と三田育種場を成功に導いた前田正名
時の明治政府の内外両面にあって、農業と農産物振興に大きな足跡を残した前田正名(1850-1921)。薩摩藩医の子として生まれた前田が、在仏総領事に同行して初めてフランスに渡ったのは1869(明治2)年のことだ。ここから、7年間に及ぶフランス留学生活が始まった。

留学中の1875(明治8)年に外務省二等書記生となった前田は、翌年、内務省勧業寮御用掛を兼任。この年、留学生活を終えて帰国の途につき、1877(明治10)年3月に日本に帰着。東京でパリ万国博覧会日本パビリオンの開設準備を進めるとともに、西洋産の植物の栽培試験・普及の推進にも精を出した。

この一時帰国を前に、前田は欧州の草木や果樹、穀物など、1,000種以上にも及ぶ植物の種苗を買い集めたが、その意を汲んで最大の協力者となった人物がフランス人の農学者であり苗木商のシャルル・バルテ(Charles Baltet、1830-1908)である。彼は1万本ものブドウをはじめとする多くの苗木や種を前田のために用意し、日本に持ち帰らせた。こうして前田が持ち帰った数多くの種苗は、内務省勧業寮が買い上げた三田四国町(現在の港区芝)の旧薩摩藩邸跡地に持ち込まれた。そしてこの地に1877(明治10)年9月、三田育種場を開場、前田が場長に就いた。広大な園場は4区に大区分され、そのうち第3区がブドウの栽培エリアとなった。ここには欧米種のブドウの苗が100種類近く植えられ、挿し木や接ぎ木による品種改良の研究などを通じて、殖産興業政策の花形産業と目された国産ワイン生産への期待が託された。

三田育種場の場長とあわせて、パリ万国博覧会事務官に任命された前田は、パリ万博への出品に向けても奔走する。その努力が実り、1878(明治11)年に開催されたパリ万博で、日本の出品は大成功を収めた。なお、パリ万博に向けて前田が再び日本を発ったのは帰国から7か月後の1877(明治10)年10月で、この時、山梨の二人の青年、高野正誠と土屋龍憲を伴ったのである。

その後の三田育種場については、内藤新宿試験場の廃止に伴ってその業務の移管も受け、同じく政府によって1880(明治13)年に開設された播州葡萄園(兵庫県)とともに、日本の醸造用ブドウ栽培に多大な貢献をもたらした。
1877年9月に開場した三田育種場

1877年9月に開場した三田育種場(竹中卓郎 編/大日本農会三田育種場 刊『舶来果樹要覧』より)

フランス人ながら日本のワイン醸造を陰で支えた功労者
シャルル・バルテ

シャルル・バルテ(1830〜1908)

前田の再渡仏に同行し、ワインづくりを学ぶために日本からはるばるフランスへと渡った二人の青年、高野と土屋に欧州のブドウ栽培・ワイン醸造を手ほどきしたのも、前述のとおり前田と昵懇の間柄であったシャルル・バルテだ。彼こそ、日本のワイン醸造の向上を欧州から支えた功労者といえる。

1830年、シャンパーニュ地方のオーブ県トロワ市に生まれたバルテは、19世紀のフランスにおける園芸の発展に多大な功績を残した農学者の一人である。20歳のとき、オーブ地方園芸殖産協会を設立し、果芸研究家としての一歩を踏み出したバルテは、29歳でオーブ県立文化省のメンバーに選出され、農産学部長となる。また、フランス、ベルギー、スイス、ロシア、オーストリアなどの農林文化省の顧問も務めた。

彼の死後も、農園の家業は子から孫へと受け継がれていった。80歳を過ぎた孫のデュモン氏が語った子供の頃の思い出話として、祖父のシャルル・バルテが病の床に伏した時、日本から前田正名が見舞いに訪れた逸話が残されている。その折、前田は7歳のデュモンに「今度来るときは日本の凧を持ってきてあげよう」と約束したそうだが、残念ながらその後、前田がバルテの家を訪れる機会はなかった。しかし、親日家でもあったバルテの家には浮世絵や東洋の置物が飾られ、日本語の植物図鑑や果樹専門書が残されていたという。

こうしたエピソードからもうかがえるように、前田とバルテの間には強い信頼関係があり、日本から初めてワイン修業にフランスを訪れた二人の青年は、その縁で国際的に名を馳せる農園家の門をたたいたのである。

帰国後も日本の殖産興業に全身全霊で取り組む
脚絆にわらじ掛けで全国行脚する前田正名

脚絆にわらじ掛けで全国行脚する前田正名(祖田 修 著/吉川弘文館 刊『前田正名』より)

さて、パリ万博終了後もフランスに留まった前田は、万博の事後処理に当たるとともに、日本企業のフランス進出のサポートなどに意を注いだ。そして1879(明治12)年、初渡仏から10年の歳月を経て、ようやく正式帰国を果たす。

帰国後、全霊をかけて殖産興業政策に取り組んだ前田は、1881(明治14)年に大蔵大書記官、農商務大書記官兼任となり、翌年には、ほぼ丸一年をかけて各国の産業経済事業調査のために欧州7か国を歴訪。こうした知見を活かし、1884(明治17)年に殖産興業の方策を説いた『興業意見』を編纂するが、刊行にあたって大蔵省側から多くの修正を要求された。地方農工商業、なかでも貿易関連産業を育成する構想を持っていた前田に対し、大蔵省が反対の立場を示したのである。結局、前田は官界の中枢から追われ、1885(明治18)年、官界を退いた。 こうして下野した前田は、払い下げられた播州葡萄園の経営などにかかわっていたが、1888(明治21)年6月、山梨県知事として赴任、官界に復帰する。初登庁の日、彼はゴザを背負い脚絆にわらじ掛けという出立ちで現れ、これを知事と知らない職員を大いに狼狽させたというエピソードが残る。着任後もわらじ履きで県内を巡視した前田は「蓑笠知事」と呼ばれ、県民に親しまれたという。その一方、フランス流のマナーを通して部下を呼び捨てにし、パリ仕込みの習慣と豪放な性格から奇異な人物とも見られていたようだ。知事在職期間はわずか8か月であったため目立った政策・成果は見られないが、民間での殖産興業の推進力であった栗原信近(山梨中央銀行の前身、第十国立銀行の創始者)と力を合わせて、山梨県下の道路整備や河川改修、甲州ブドウの普及にも努めた。

山梨県知事から中央に戻り農商務省工務局長の職に転じた前田は、1890(明治23)年1月、農商務次官に昇格するが、派閥争いのあおりを受けて同年5月に農商務省を去ることとなった。官吏として二度目の挫折を味わった前田だが、一方で、その心は常に地方産業の育成・振興へ向いていた。その後も彼は、山梨県知事時代と同様、脚絆にわらじ掛けで全国を行脚し、日本茶業会などさまざまな産業団体を結成する一方、農業や果樹栽培の技術改良にも尽力した。

自らの人生を明治政府の殖産興業政策の推進に捧げ、ワイン産業、殊にブドウ栽培に尽力した前田正名と、その理解者・協力者であったシャルル・バルテ。後世の国産ワインの発展は、二人の努力が熟し実ったものといえる。しかし、政府の殖産興業政策としてのワイン生産振興策は、その後の政策転換によって終息し、ワイン産業の中心は民間へと移っていった。

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