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歴史人物伝 歴史人物伝

日本のワインのパイオニアたち

フランスへ留学して本場の知識を持ち帰った高野正誠と土屋龍憲

ワイン醸造を基礎から学ぶため、二人の若者が渡仏
フランス留学中の高野正誠 (左) と土屋龍憲 (右)

フランス留学中の高野正誠 (左) と土屋龍憲 (右)

殖産興業の追い風を受け、新政府がブドウ栽培に力を入れていた明治初期、山梨県では1877(明治10)年8月に法人組織・大日本山梨葡萄酒会社(通称、祝村葡萄酒会社)が設立された。所在地は八代郡祝村下岩崎(翌年からは東八代郡。現在の山梨県甲州市勝沼町下岩崎)。この地は甲府盆地におけるブドウ栽培発祥の地とされ、古くからブドウ栽培が盛んで、明治期に入っても桑園が栄える一方でブドウの作付けが続けられていた。新会社の社長には雨宮広光、発起人には内田作右衛門、雨宮彦兵衛、土屋勝右衛門、宮崎市左衛門ら、地元の事業主で村政運営の中心人物でもある面々が名を連ね、設立時の資本金は約1万4千円(現在の貨幣価値に換算すると数億円)であった。

彼らは、まずは醸造技術や醸造法を指導できる有能な人材の育成に目を向けた。そこで白羽の矢を立てたのが、株主でもあった高野正誠(1852〜1923年)と、発起人のひとり土屋勝右衛門の長男の土屋助次朗(のちの龍憲、1858〜1940年)だった。村から優秀な青年をワインの本場フランスへ派遣し、醸造技術と醸造施設、ブドウの品種についても徹底的に学び取らせ、日本人の手による良質な国産ワインの生産を目指したのだ。

株主総会で選考会を開き、当初はこの二人のほかに宮崎市左衛門の長男・光太郎も選ばれていたが、光太郎は一人息子だったため「異境で万一のことがあっては」と親からの猛反対を受け、やむなく辞退した。結局、高野と土屋がフランスへ派遣されることとなったが、修業期間は1年間、会社が用立てた渡航費は二人合わせて3,031円6銭4厘だった。この金額を工面するにあたり、会社側は発起人や株主の土地を担保に県から1,000円分を借用して不足金を補った。こうした経緯もあってか、出発に際して高野と土屋は会社側と契約書(「盟約書之事」)を交わしており、その文面を要約すると「もし1年の修業期間内にブドウ栽培およびワイン醸造の知識を習得できなかったら、その後も自費で修業を続け、帰国後は会社の成功・発展に貢献せよ」という厳しい内容だった。ワインづくりに関してはもちろん初心者で、フランス語も話せなかった村の青年が1年間で学んでくるというのはどだい無理な注文である。それでも二人は旅装を整え、出航地の横浜を目指して旅立った。

このとき、二人の渡航や滞在中の世話などを請け負ったのは前田正名(のちの山梨県知事)であった。前田は、留学生や外務省二等書記生として7年間をフランスで過ごした後、パリ万国博覧会の日本パビリオン開設準備のために帰国していたが、仏国博覧会事務官長として再び渡仏することが決まっていた。これに同行するため、高野と土屋が横浜に着いたのは10月7日、その3日後の1877(明治10)年10月10日、フランス船タイナス号に乗り込んだ三人は横浜港から出立した。
高野・土屋が会社に提出した契約書「盟約書之事」

高野・土屋が会社に提出した契約書「盟約書之事」

不眠不休の努力で習得したブドウ栽培とワイン醸造
香港で別の船に乗り換えた一行は、シンガポールからインド洋に向かいセイロン島に寄港、アラビア海からスエズ運河を抜けてポートサイド、ナポリを経由、マルセイユの波止場に着いたのは11月24日だった。一等船室の前田と違い、三等船室での46日間に及ぶ二人の旅は船酔いと猛暑との戦いであった。マルセイユからはさらに列車に乗り込み、首都パリを目指した。

パリに到着した二人は前田の知人の家に1か月ほど厄介になり、いくらかフランス語が聞き取れるようになると12月28日、いよいよトロワ市に向けて出発した。修業期間が限られていたため、語学に時間を割いている余裕はなかったのだ。トロワ市はパリから150kmほど離れたシャンパーニュ地方の街で、ここで国際的な農学者・苗木商であったシャルル・バルテの世話になり、翌年1月にはバルテの紹介でブドウ栽培・ワイン醸造研究の実務者ピエール・デュポンに出会った。両氏の指導のもと、二人はフル回転で技術を学び、ブドウの剪定、挿し木法、接ぎ木法、生食用と醸造用ブドウの違いなどを実技と理論の両面から研修した。また、この成果を日本人に正しく伝えるため丹念なスケッチも重ねた。10月にはブドウの収穫、ワイン醸造に実際に立ち会い、醸造過程を不眠の努力で習得した。こうして昼は作業、夜は記録と、難解な栽培法と醸造法の習得に懸命に励んだのである。

二人の留学先について付言すると、トロワ市はシャンパーニュ地方の南端に位置し、ワインの産地として名高いボルドー市やブルゴーニュ地域とは異なる。これは前田がトロワ市在住のバルテと旧知の仲であり、留学生の受け入れ手はずがすでに整っていたからだったが、そのおかげでワインだけでなくシャンパンやビールの製造法も学ぶことができたようだ。
二人がマルセイユ港から帰国の船に乗ったのは1879(明治12)年3月23日、横浜港に帰り着いたのは5月8日だった。
土屋がフランスで学んだことを記した「葡萄酒栽培並葡萄酒醸造範本」

土屋がフランスで学んだことを記した「葡萄酒栽培並葡萄酒醸造範本」(土屋龍二氏所蔵)

会社解散後もそれぞれに信じる道を歩み続けた二人
しかし二人が帰国したとき、日本の情勢は大きく変わりつつあった。1878(明治11)年、殖産興業の推進者だった大久保利通が暗殺され、殖産政策は内務省が継承するところとなっていた。また、二人を送り出した大日本山梨葡萄酒会社は、彼らの帰国を待ってワイン醸造に着手する状況であった。こうした中で二人は、最初の仕込みを行った1879(明治12)年に甲州種のブドウを使って30余石(約5キロリットル)のワインを、翌年には180余石(約33キロリットル)のワインを醸造した。二人の帰国によって国産ワインの醸造が本格的に始まったわけだが、現実的には大きな問題が立ちはだかっていた。販売ルートは確立できず、欧州種の苗は病害虫に侵されたこともあって日本の風土に根づかず、醸造したワインの品質にもバラツキがあったため、1883(明治16)年以降は造石数を大幅に下げ、その翌年には醸造停止に追い込まれた。

醸造人も、1882(明治15)年3月の時点で高野正誠ひとりになっており、土屋龍憲は早くも脱退して別の道を模索していた。1884(明治17)年の9月には会社機能は完全に停止、働いている者は一人もいない状態に陥った。そして1886(明治19)年、大日本山梨葡萄酒会社はついに解散に至る。

会社解散後、土屋は宮崎光太郎とともに旧会社の醸造器具を譲り受けて甲斐産葡萄酒醸造所を興し、1888(明治21)年には東京・日本橋に販売会社として甲斐産商店(のちの大黒葡萄酒株式会社、オーシャン株式会社)を開いた。その後、土屋は宮崎との共同経営を解散し、独自のブランドを展開した。一方、高野正誠はその後もブドウ栽培と醸造技術の普及に努め、1890(明治23)年に名著『葡萄三説』を著し、自らもワインを醸造した。共同して技術を習得し国産ワインの醸造に努めながらも、その後は別々の道を進むこととなった二人だが、彼らの努力が実を結び、日本でも一定レベルのワインが生産されるようになるのは明治30年代に入ってからのことである。
高野正誠が醸造したワインと著書『葡萄三説』、高野が使っていた矢立

高野正誠が醸造したワインと著書『葡萄三説』、高野が使っていた矢立


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