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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールのモダンさを好んだ早逝の天才歌人・石川啄木
(いしかわ たくぼく)1886-1912/岩手県出身

日記に記されたビールを飲む日々

石川啄木

石川啄木(石川啄木記念館 蔵)


明治時代後期、ビールは徐々に庶民にまで普及し始めていた。国内生産量が増加した一方、鉄道などの輸送機関の整備はビールの地方都市への出荷を可能にした。現在の感覚からするとまだ高価な嗜好品ではあったが、人々は、その頃流行したビアホールや飲食店などで、ビールを口にすることができた。

この明治後期にビールをこよなく愛した文学者として、歌集『一握の砂』『悲しき玩具』で知られる石川啄木の名が挙げられるだろう。日々の出来事を詳細につづった彼の日記には、ビールの記述が幾度となく登場する。

たとえば1907(明治40)年9月、転職のために函館から札幌への移住を余儀なくされた直前の日記には、友人との別れの酒宴について以下のように記されている。

9月10日
4時頃より快男子大塚信吾君来たり、並木君来たり……(中略)予は2、3日中に札幌に向かわんとす。此夜大いに飲めり。麦酒十本。酒なるかな。酔うては世に何の遺憾かあらん。
(『丁未日記』)

また次の記述は、文学で身を立てるべく上京した1908(明治41)年初めの日記である。まだ正月気分が抜けない中、友人らとビールを囲んでわいわい談笑している姿が想起される。

1月3日
晴、温、ぽかぽかした日。金田一君と談った。12時頃岩動康治君が来た。金田一君と3人でカルタ。岩動君帰って将棋……(中略)ビールをのみ、蜜柑を食う。日くれて共に夕めし。
(『明治四十二常用日記』)

啄木は生涯にわたりビールを好んだ。特に友人らとの社交の場では、数あるアルコール飲料の中から、あえてビールを選択していたようだ。

啄木はなぜそれほどビールにこだわったのか。その理由を本人は明らかにしていない。ただ、ビールが当時もなお「西洋からの舶来品」であり「都会的な飲み物」と一般的にとらえられていたことは一つのヒントになる。見栄っ張りな性格で、活動写真など新しいはやりものを好んだ啄木のこと、きっと「西洋」や「都会」を連想させるビールの洒脱さが、自分のモダンなセンスにふさわしいと考えていたのだろう。

短歌に詠われた孤独で悲しい一人酒

都会にあこがれ、モダンな文化を好んだ啄木は、他方で漂泊の歌人であった。1886(明治19)年、岩手県の日戸村(現・盛岡市玉山区日戸)に生を受けた彼は、中学校時代にはのちに妻となる堀合節子や生涯の友・金田一京助らと出会う。17歳で最初の上京を果たし、与謝野鉄幹が主催する雑誌『明星』で詩歌を発表すると、その後も多くの文学者と交流を重ね、歌壇で注目を集め始めた。

しかし、翌年に病に冒されたため父に伴われて帰郷。それ以降は、歌人としての名声とは裏腹の不安定な生活が続いた。

盛岡時代には学校教員などの職に就くが、こらえ性のなさや気まぐれな性格から仕事は1年として続かない。1907(明治40)年、21歳のときには北海道に渡り、函館〜札幌〜小樽〜釧路と住居を変えながら、新聞記者、代用教員、校正係などの仕事を転々とする。歌人・啄木の名は通用するので、はじめは各地で歓待を受けるのだが、結局人間関係も仕事も長続きせず、いずれも彼の安住の地とはならなかった。 啄木はプライドが高く、歌人としての才能を自負していた。そのため、流浪を続ける現実の自分と「本来あるべき自分」のギャップの大きさに悩み、誰にも理解されない我が身の孤独を一人嘆いた。実際には献身的に啄木を支援し続けた金田一京助のような友人もいるのだが、そうした現実を直視できなかった。

こうして孤独感を背負い、精神的にも悩み続ける彼が自らの心情を吐露できるのが、一つは言葉(短歌)であり、一つはアルコールであった。

盛岡、北海道、東京を中心に、各地に建立された啄木の歌碑は100を超える。啄木はどんな環境においても短歌を詠むことを忘れなかった。というよりも、啄木にとって短歌とは、呼吸をするかのごとく口からこぼれ出るものだった。

彼は26年という短い生涯の中で、750首ほどの短歌を残したが、その中にアルコールを詠んだ歌は71首あるという(岩手大学公開講座「啄木の魅力、賢治の魅力」高等教育情報化推進協議会)。たとえば次のような歌が残されている。

しっとりと
酒のかをりにひたりける
脳の重みを感じて帰る
(『悲しき玩具』)

酒のめば悲しみ一時湧きくるを
寝て夢みぬを
うれしとはせし
(『一握の砂』より)

日記にある群飲の陽気さに比べ、短歌の中における啄木は一人杯を傾けている。彼にとってアルコールは、世の憂いを笑い飛ばすものである一方、境遇の惨めさやむなしさと向かい合い、自らをかみしめるものであったのだ。
幼少期を過ごした旧渋民村(現・盛岡市玉山区渋民)に建立された歌碑

幼少期を過ごした旧渋民村(現・盛岡市玉山区渋民)に建立された歌碑。遠くに岩手山を望む(石川啄木記念館 提供)

ビール広告に触発された評論「食ふべき詩」

北海道に職を得られなかった啄木は、文学の道を貫くため再度上京を果たす。終焉の地となる東京で、金田一京助の金銭的な援助を受けながら、彼は文芸活動に打ち込んでいった。

上京の翌年、啄木は電車の車内で「食(くら)ふべきビール」と記された「キリンビール」の広告に目を奪われる。「食ふべきビール」とは、「ビールは栄養価が高いので、食事をとるのと同じように、日常的にビールを飲みましょう」という意味が込められたキャッチコピーである。この文句に触発された啄木は、1909(明治42)年、「食(くら)ふべき詩」と題した評論を『東京毎日新聞』に発表する。

(食ふべき詩と)言う心は、両足に地面をくっつけていて歌う詩という事である。
実人生と何等の間隔なき心持ちをもって歌う詩という事である。
珍味ないしは御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然く我々に「必要」な詩という事である。
 ※旧仮名遣いは適宜新仮名遣いに直した。
(『弓町より(食ふべき詩)』)

「歌とは特別な創作活動ではなく、日常生活の延長上に位置付けるべきもの」と啄木は宣言したのだ。それは自分の半生に対する自悔の念が込められているとともに、当時の歌壇に対する大胆な挑戦状でもあった。金田一京助も後年、この評論を「半分は自分の半生に対する悔悟、懺悔録」であり、「あとの半分は文学の革命の声」だったと述懐している。

しかし啄木は、この宣言に基づく創作活動を全うすることはできなかった。「食ふべき詩」の発表から3年後の1912(明治45)年4月、啄木は26年の生涯に幕を降ろす。あふれんばかりの詩才を熟成させるには、あまりにも短すぎる一生であった。

啄木の逝去から三カ月後、元号は明治から大正へと改元した。大正時代には大衆文化が発展し、都市の盛り場には洋風の食文化を楽しめるカフェー、ビアホール、喫茶店などが立ち並ぶことになる。モダンを自認する啄木がそれらを目の当たりにしたら、どんな歌を残しただろうか。


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