歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

希代の博物学者で、大のビール党だった日本初のエコロジスト・南方熊楠
(みなかた くまぐす)1867-1941/和歌山県〈紀州藩〉出身

菌類研究のため世界を放浪

南方熊楠

南方熊楠(国立国会図書館 蔵)


「諸家に往き書を借り、『本草綱目』『和漢三才図会』『諸国名所図会』『日本紀』等を十四歳までに尽く写す(『南方熊楠全集』10巻)」と、民俗学の父・柳田國男宛ての手紙に書き残した南方熊楠。明治中期に海外で15年にわたる研究生活をおくり、のちに自然保護運動を日本で初めて展開した博物学者、植物学者である。

南方は、幼い頃より卓越した記憶力と好奇心で神童と呼ばれ、自身が述懐しているとおり、博物学の古典や大百科事典を書き写し、幅広い知見を得ることに無上の喜びを感じていたようだ。

1884(明治17)年、17歳の時には東京大学予備門(のちの旧制第一高等学校)に入学するが、好き嫌いの激しい性格が災いし、翌年の1885(明治18)年末、苦手な代数などの科目で失点、落第してしまう。これをきっかけとし、関心のない学問に費やす時間はないと、あっさりと退学を決意。いったん実家に戻るが、父と兄が不仲なことから次男である彼が跡取りとして和歌山の地に束縛されることを恐れ、1886(明治19)年末、植物学の先端研究に触れるために渡米した。

彼はミシガン、フロリダを転々として植物学や粘菌研究にうちこみ、さらにはキューバへと渡る。そこで岩だらけの荒野を歩き回り、新種の地衣類(菌類と藻類の共生生物)を発見し欧米の学会を大いに沸かせた。

それでも知への渇きが満たされなかった南方は、1892(明治25)年、25歳で当時学問の中心地であったロンドンへ渡る。渡英直前に父が亡くなり、実家からの仕送りがいっさい当てにできなくなったため、ロンドンでの彼の生活は窮乏を極めた。しかし、そんな状況に屈せず大英博物館へ通い詰め、考古学、人類学、宗教学など広範にわたる書物をかたっぱしから筆写。『大英博物館日本書籍目録』や『大英博物館漢籍目録』などの編纂にも携わった。

ビールとともにあったイギリス留学

南方のロンドンにおける学究生活の中で、ほぼ唯一の学問以外の楽しみがビールをはじめとするアルコールであった。アルバイトなどで得た金はたいがい飲酒代として消えていった。博物館からの帰りにはよくパブでビールを飲んでから帰路についたという。当時の日記には次のような記述が残る。

ロンドンでは街の角は必ず居酒肆(いざかや)なり。三井物産会社社員の倶楽部の合田栄三郎といふ人、(中略)英語を知らず。居酒肆を角屋といふ。このことを小生福本誠氏に話せしに、日南『それはよき名なり』とて、小生を角屋先生といふ。(『南方熊楠全集』別巻1)

文中、日南とあるのは福本日南(誠)のことで、当時『大阪毎日新聞』記者として渡英し南方と知り合い、のちに『九州日報』の社長兼主筆を経て衆議院議員となる人物である。この友人からパブにちなんだあだ名をつけられるほど、ロンドン時代の南方はアルコールを愛していたことがうかがえる。

在英中、南方は一流科学誌『NATURE』にたびたび投稿し、ニューヨーク総領事を務めたロシアのオステン=サッケン男爵やロンドン大学事務総長のディキンス、イギリスを訪れていた孫文など時代を代表する知識人たちと交流した。 だが1900(明治33)年、33歳になった南方はいよいよ困窮の度を深め、やむなく帰国の途につく。帰りの船上での様子について、彼は福本日南宛ての手紙で次のようにつづっている。

日々甲板に駆上り、知らぬ連中を相手に珍談を講じ、大酒宴を催し候(中略)そのため新嘉玻(シンガポール)に達する前三日、船中用意の麦酒大瓶の方全く尽き、香港以後は小罎にて制限を加えることに相成候。(神坂次郎著『縛られた巨人〜南方熊楠の生涯〜』)

イギリス留学の帰路においても大好きなビールを手放さなかったというわけだ。

生活が楽ではなかったとはいえ、イギリスでの研究生活がよほど充実していたのであろう、彼は帰国後、ロンドンで出会った友人で後に高野山管長となる土宜法龍(どぎほうりゅう)への書簡の中で、再渡英し骨を埋めたいとまで語っている。
南方の論文が掲載された科学誌 『NATURE』

南方の論文が掲載された科学誌 『NATURE』(財団法人南方熊楠記念館 蔵)

合祀反対と自然保護運動に尽力

帰国して一年たち、南方は熊野にある勝浦へ移住する。ここで彼は生物の多様性にひかれ、取りつかれたように熊野の山中を歩き回り藻類や菌類を採集した。顕微鏡と鉛筆水彩画と紙を携え、夏も冬も常に浴衣に縄の帯といういでたちであったらしい。そのころの楽しみは、やはりビールを飲むことだったようだ。ときには勝浦港の漁師たちと飲むこともあったらしい。好きな研究に明け暮れ、アルコールを楽しむというライフスタイルは、南方の生涯を通して変わっていない。

1906(明治39)年、南方は39歳にして12歳年下の女性・松枝と結婚。ちょうどこの頃から、彼は熊野の森で発見した粘菌の研究成果を雑誌に発表し始めた。倒木を土に返し次の命をはぐくむ微生物の活動に、自然サイクルのメカニズムを解く鍵を見いだしたのだ。南方は自然の生態系を守る熊野の森に引き込まれていった。

ところが同年、明治政府は「神社合祀令」を発令。「一町村一社」として地方の神社を統廃合し、これとともに古くから人々の手で守られてきた鎮守の森も次々とつぶされていった。土地は農地などに転用、切られた巨木は高値で売買され大きな利権を生んだ。古くから参詣道のある熊野の森にも危機が迫っていた。

伊勢神宮を擁する三重県と熊野三山のある和歌山県で合祀が始まると、南方は1909(明治42)年から新聞などで反対論を展開したり、代議士を通じて内務省に訴えたりと必死の活動を行った。その活動中に知り合ったのが、当時内閣書記官であり、民俗学の父となる柳田國男である。南方は熊野路の引作(ひきづくり)神社の合祀に伴い樹齢1000年の大楠が倒されることを新聞で知り、何とかこれを止めてくれるよう、柳田に加勢を依頼。柳田から三重県知事への伐採中止の要請もあり、大楠は無事守られたのだった。

この後も南方は熊野の自然を保護するため、合祀反対運動に尽力。政治家や学者などに人間の暮らしや文化の基盤を支える自然の重要性を訴え、協力を取り付けた。こうした南方の活動が功を奏し、1918(大正7)年、帝国議会は神社合祀令の廃止を決議し、熊野の森は守られたのだった。

日本の自然保護運動の先駆者となった南方は、1941(昭和16)年、家族に見守られて静かにその生涯を閉じる。享年75。 熊野の環境保全はその後も住民らに受け継がれた。長い間の運動が功を奏し、2004(平成16)年には熊野一帯を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産リストに登録された。

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