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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールを愛し「酒仙」と呼ばれた明治文学界の重鎮・幸田露伴
(こうだ ろはん)1867-1947/東京都〈江戸〉出身

明治文学の黄金期である「紅露時代」を確立

文化勲章受賞時の幸田露伴

文化勲章受賞時の幸田露伴(読売新聞社 蔵)


『五重塔』、『運命』、『連環記』などを著し、日本近代文学に偉大なる足跡を残した幸田露伴。露伴の生誕は1867(慶応3)年。同年生まれに夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉がいる。

19歳のときに坪内逍遥の『小説神髄』と出会い、電信技手の仕事をやめ、小説の世界に飛び込んだ。1892(明治25)年、25歳で発表した『五重塔』が高い評価を受け、作家としての地位を確立。『我楽多文庫』を刊行していた同世代の尾崎紅葉と人気を二分し、「紅露時代」と呼ばれる一時代を築いた。

彼は晩年になると「大露伴」と称され、1937(昭和12)年には、70歳にして第1回文化勲章を受章。小説のみならず、随筆や俳諧作品に対する彼の含蓄に富んだ批評は、日本近代文学界に大きな影響力を持っていた。「大露伴」の名も、露伴が明治文学の旗手の一人であり、文学界の重鎮となったその功績の大きさを示しているものであろう。

ほろ酔いで家族や友人と語らう

「露伴」の筆名は「旅路の中で、露を伴侶とす」の意味である。この名が示す通り、彼は文学界の一匹狼を貫いた。徒党を組むことを嫌い、紅葉が座長を務めた硯友社のような一派は持たなかった。

作品においても、二人は対照的であった。口語体と文語体を組み合わせた流麗な文体で浮き世を描写しようとした紅葉に対し、露伴は漢語的な文章で美の本質に迫ろうとしていた。そのため、当時二人の作品は、「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と称されていたのである。
1897(明治30)年には、家族とともに向島(現・東京都墨田区東向島)に移り住む。江戸時代から文人たちに親しまれた田園風趣を色濃く残すこの地で、ひっそりとした作家生活を営むためだ。彼は自邸に、家を持たないカタツムリに擬して、「蝸牛庵」という名を付けた。 教養人でもあった露伴は、将棋、書道、川釣りなど、その趣味も多岐にわたったが、日々の一番の楽しみはアルコールであった。世間では「酒仙」の異名でも知られていたほどだ。

露伴はアルコールならより好みはしなかったらしく、ビール、ウイスキー、清酒など、どんなアルコールも嗜んだ。自ら銀座の明治屋や浅草の山屋などの酒販店へ買い求めに行くこともあったという。露伴の娘で、のちに随筆家となった幸田文は、アルコールを飲む父の姿を多く書き残している。

父はよく酒を飲んだ。一人でも飲み客とも飲んだ。(中略)私たちにもしつこかった。機嫌よく酔っているときは話を聴かせてくれるにしても、浮きたつようなおもしろさであった。そのおもしろさが遂におわりまで続いたことがなかった。ひきこまれて夢中になっているうちに泣かなくては納まらないような羽目にさせられてしまう。
※旧仮名遣いは適宜新仮名遣いに直した。 (幸田文著『みそっかす』)

ほろ酔い加減で家族らと語らう露伴。この記述は、文章の難解さや「大露伴」の敬称からは想像もつかない、彼の一面を教えてくれる。気難しく厳格な気性のせいで家族をよく困らせていた反面、晩酌をして家族と談笑することを生涯の楽しみとしていた。

人と会うときにも、その傍らには常にアルコールがあった。碩学である一方で、篤厚でユーモアを忘れない人間性に、誰もがほれ込んだという。
博物館明治村に移築されている向島時代の「蝸牛庵」邸

博物館明治村に移築されている向島時代の「蝸牛庵」邸(博物館明治村 提供)

霊前に届けられたビールの山

太平洋戦争終結後、最後の仕事となる『芭蕉七部集』の口述評釈を完成させた露伴は、すべてをやり尽くしたかのように老衰を早め、病床に伏す身となる。そして、彼が最後に口にしたアルコールが、ビールであった。

父は亡くなる二三日まえに、ビールが飲みたいと言った。そう言われたとき、病室の緊張がゆるんでみんなが明るかった。当時酒類は自由販売でなかったから、ビール二三本のことに今思えばうそのような苦労をした。ようやく手に入れて、吸飲でそれを飲ませると、父は酔った。(中略)あんなに酒をたしなんだ人が、わずか一杯のビールを酒の最後にしていなくなってしまった。
※旧仮名遣いは適宜新仮名遣いに直した。 (幸田文著『父の七回忌に』)

明治文学界の巨人は、1947(昭和22)年7月30日、80歳で静かに息を引き取った。

露伴の同い年の文学者として、先に三人の名をあげたが、子規と紅葉が明治時代、漱石が大正時代のうちに亡くなったのに対し、露伴だけが長生きをした。明治中期に活躍した文人の中で、昭和の空気を吸った数少ない人物の一人であった。

没後、その霊前には多くのビールや清酒が届けられた。最期をみとった娘・文は、「酒壜のならんでいるのは景気のいい眺めであったが、(中略)これだけあるものを飲ませたかったという素直な残り惜しさもある」(幸田文著『父の七回忌に』)とつづっている。

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