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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールで友情の杯を交わした日本言語学の大家・金田一京助
(きんだいち きょうすけ)1882-1971/岩手県出身

ほろ苦いビールで引っ越し祝い

金田一京助(左)と石川啄木

金田一京助(左)と石川啄木(日本近代文学館 蔵)


日本を代表する言語学者であり、アイヌ語研究の第一人者でもある金田一京助。彼は「いい人」だったことで知られている。 その「いい人」ぶりは、石川啄木との友情物語によって語られることが多い。詩人啄木には浪費癖があり、散財家であった。啄木の困窮する生活を、同郷の友である京助は金銭面でサポートし、また彼を精神的にも支えた。
例えば次のようなエピソードがある。

1908(明治41)年、京助26歳、啄木22歳の夏。中学校の講師という職に就きながら言語学者を目指すべく日々勉学に励んでいた京助と、文学の道を志してこの年上京したばかりの啄木は、同じ赤心館という下宿先に部屋を借りていた。しかし、安定収入のない啄木には下宿代が払えない。見るに見かねた京助は、自分の服などを質屋に入れて、啄木に金を貸す。それでも下宿先への啄木の“ツケ”はかさんだ。 下宿のおかみさんの我慢も限界となり、いよいよ啄木が追い出されるその直前、京助は一大決心をする。自らの蔵書をほとんど売り払おうというのだ。しかも一切啄木に相談せず、荷車二台分の蔵書を古書店に売った金でひそかに次の下宿先を確保し、子細整えてから「石川さん、さあ引っ越しだ」と告げた。がらんとした京助の本棚を見てすべてを察した啄木は、この朋友に向かって手をもんで拝み、「わたしのために」と深謝したという。
この後、昼過ぎに二人は小料理屋に入り、ビールで乾杯した。京助の回想には次のようにある。

新しい第一歩のかどでだ。お互いのために祝杯をあげようと、あの辺の、確か台町であったか、とある一品料理──その頃は、ミルクホールが、ぼつぼつそうなって、これがまた今のカフェーなどいうものへ移る一つ前の時代だ──へ入って二人で、トンカツ・ビフテキというところで、ビールを傾けて大いに気勢をあげた。 ※旧仮名遣いは適宜新仮名遣いに直した。 (金田一京助著「啄木余響」/『近代作家研究叢書 石川啄木』所収)

啄木に対し男気をみせた京助。ビールを片手に、この引っ越しを二人にとってどれだけ有益なものにすべきか語り合ったことだろう。しかし内心、蔵書を売り払ったことに対する後悔の念もあった。京助の回想は次のように続く。「実をいえば、本の愛着とでもいうものがあって、このときのビールほど様々な味をもったビールを飲んだことがない」。

言語学という言葉の世界で生きる京助にとって、読み親しんだ蔵書を手放すにあたっては、我が子を手放すのにも似た苦悩があった。しかし、目の前の親友のためにはそうせざるを得ず、それによって確かに啄木は救われたのだ。ビールのほろ苦い味とともに記憶された、青春の一幕であった。

啄木の詩才を愛す

京助と啄木の友情物語は、二人の故郷盛岡から始まる。

盛岡市四ツ家町に生まれた京助は、1892(明治25)年に盛岡高等小学校に入学。その三年後、入学してきた啄木と出会った。文学青年であった京助は、若くして詩才にあふれる啄木と意気投合し、盛岡在住の間に短歌の同好会「白羊会」を結成している。

その後東京帝国大学に入学した京助は、上田万年らの講義に突き動かされ、言語学、特にアイヌ語研究の道を志すようになる。1906(明治39)年にはアイヌ語調査のため、初めて北海道に渡り、翌々年には初の論文「あいぬの文学」を発表した。

こうして言語学者としての道を歩み始めて間もないときに、盛岡より啄木が上京した。啄木との再会は京助の生活を一変させた。生活力に乏しい啄木のために、京助は身銭を削ることになる。食事をおごる、書籍代を立て替える、さらには前述の通り、身代を売り払ってまで下宿代を工面した。

やがて京助は結婚し家庭を持つのだが、それでも啄木への生活補助は続いた。京助の息子・金田一春彦の著書『父京助を語る』によれば、京助の妻は後年になって当時をふりかえり「甘い新婚生活の夢はたちまち破れ、そこへ垢抜けしない男が親友と称して入りこんで、人のいい亭主からなけなしのお金を持っていくのでは、恨み骨髄であった」と語っていたという。

京助は、なぜそこまで啄木に尽くしたのか。

一つには、啄木の詩才にほれ込んでいたことがあげられる。二人は10代のとき同じ文学の道を志したが、京助は中途で断念することになった。それは言語学という新たな道が開けたためでもあったが、啄木の天賦の才を目の当たりにし、自分の才能に見切りをつけた面も大きかったようだ。だからこそ啄木の生活を支え、その大成を支援することを自らの使命としたのである。

もう一つは、啄木が東京における唯一無二の同志だったためだ。京助の方が先に上京していながら、彼に東京での遊びを教えたのは啄木であった。二人はしばしば浅草などの盛り場に繰り出しては、映画館や見世物小屋をまわり、繁華街でビールなどのアルコールを嗜んだ。その様子は、啄木が友である京助を詠んだ歌にうかがえる。
興来れば
友なみだ垂れ 手をふりて
酔漢のごとくなりて語りき

京助がほろ酔い気分で、啄木に自らの夢や政治への憤りを語っている姿が彷彿とする。もちろん飲食代もたいていは京助が支払うのだが、それはたいした問題ではなかった。京助にとって啄木は、竹馬の友であるとともに、東京で共に立身を目指す同志であったのだ。それは決して金銭には換算することはできない関係だったのだろう。

日本言語学の大家として

その無二の親友啄木が肺結核に倒れたのは、明治という時代が終焉を迎えた1912(明治45)年。京助30歳、啄木26歳、あまりにも若すぎる別れだった。その死を振り切るかのように研究に打ち込み始めた京助は、この年、初の著書である『新言語学』を刊行。翌年には柳田国男と出会い、その後ろ盾もあってアイヌ語文学を筆録した『北蝦夷古謡遺篇』が世に出る。こうして言語学者、アイヌ語研究家としての地位が固まっていった。

若くして亡くなった啄木と異なり、89年の人生を全うした京助は、生涯にわたって数百点の書籍・辞典類の編著に関わった。彼が明治・大正・昭和の三代にわたって残した学績は、日本言語学史上最大級のものであったことに異論はないだろう。

京助はその晩年、人前でよく啄木について述懐し、啄木伝も数多く執筆している。特に好んで人に語ったのが、先の引っ越しのエピソードだったという。昼下がりに親友と酌み交わしたビールは、生涯忘れることのできない、鮮烈な味を伴っていたのだろうか。

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