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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

「キリンビール」の名付け親、三菱の「番頭」・荘田平五郎
(しょうだ へいごろう)1847-1922/大分県〈臼杵藩〉出身

「麒麟」印のビールの登場

荘田平五郎

荘田平五郎(三菱重工業株式会社長崎造船所 蔵)


キリンビールの前身であるビール会社、ジャパン・ブルワリーが初めて「キリンビール」と名付けたビールを世に送り出したのは、1888(明治21)年のこと。ビール会社が乱立し、必ずしも良質なビールばかりではなかった当時において、「キリンビール」はドイツから招かれた醸造技師が、原材料や機械設備もドイツ産のものにこだわって醸造した、本格的ドイツ風ビールであった。こうしたこだわりから生み出された良質のビールは、発売とともに高い人気を呼び、販売数を伸ばしていった。

この「キリンビール」のラベルには、古代中国の想像上の動物である「麒麟」の姿が描かれていた。その由来について、当時「キリンビール」の販売を一手に引き受けていた明治屋の創業者、磯野計(はかる)の伝記『磯野計君伝』(竹越与三郎著)には、「(ジャパン・ブルワリーの)麦酒に麒麟を書きたる商標を用ゆることになったのは荘田平五郎君の発案によるものである」と記されている。

荘田平五郎は、日本の四大財閥の一つである三菱財閥の「番頭」と呼ばれ、その事業の基礎を築いた人物。この明治を代表する実業家こそが、その後現在に至るまで100年以上続くブランド「キリンビール」の名付け親だったのである。

学問の道から実業界へ

荘田平五郎は1847(弘化4)年、豊後国臼杵藩(現・大分県臼杵市)に生まれた。幼いころから藩校の秀才として知られ、数えで21歳の1867(慶応3)年、藩から選抜されて江戸の洋学塾に入門。一時期薩摩藩の開成所にも学び、1870(明治3)年には再び上京して福澤諭吉の慶應義塾に入塾する。わずか4カ月で学生の身分を卒業して教壇に立ち、大阪、京都での慶應義塾分校設立を任されるなど、福沢の深い信頼を得た。

しかし、荘田に適した道は、学問の世界ではなく実業界にあったらしい。福沢の許可を得て、1875(明治8)年には慶應義塾を去り、当時まだ創立間もなかった三菱商会、のちの三菱財閥へ入社する。創立者の岩崎彌太郎に才を認められ、ここでもたちまち頭角を現した。 入社まもなくで商会の会社規則を制定したほか、銀行業などへの進出にも尽力。また、主力業であった海運業において、他社と合併して日本郵船社を設立することになった際も、三菱側の代表として奔走し、日本郵船初代理事を務めた。1886(明治19)年には、海運業を手放して再出発した「三菱社」の本社支配人に就任している。

荘田の命名による「キリンビール」が発売されるのは、その2年後のことだ。もともと、彌太郎の弟で三菱二代目当主の彌之助がジャパン・ブルワリーの株主を務めるなど、三菱とジャパン・ブルワリーとの関係は深い。荘田自身も、1886(明治19)年に株主の一人となっている。そうした関係の中で、荘田の提案が採用されることになったのだろう。当時、西洋から輸入されてくるビールには狼や猫などの動物を描いたラベルが多かったことから、荘田は「東洋の霊獣・麒麟を商標にしよう」と考えたといわれる。
発売された当時の「キリンビール」ラベル

発売された当時の「キリンビール」ラベル

アルコールを愛した「箸箱」

荘田は、プライベートでも大変なアルコール好きであった。本人が江戸遊学中に記していた日記には、「そば屋に誘われてごちそうになり、大いに酔った」「友人と塾にて少し飲んだ」などの文章がたびたび見える。もちろん、三菱に入社して以降は、仕事で宴席を設けることも多かったことだろう。「当時の三菱には珍しい、英国風の紳士であった」といわれる荘田のこと、当時はまだハイカラだったビールを口にすることも少なからずあったことであろう。

戦後すぐに出版された、明治〜昭和初期の実業家たちの伝記集『人物で読む日本経済史』は、荘田を指して「あまり比類のない豪酒家」と述べている。酔うとふだんより口数こそ増えるものの、常に陽気で機嫌よく歓談に興じ、周囲の人々に迷惑がられるようなことは決してなかったともいう。ただし、酔いが回ると顔の色だけが目立って青白くなるために、初めて酒席を共にした人などからは、「具合が悪いのでは」と誤解されることもあったらしい。

また、ひとたび飲み始めると、その宴席がどれほど長引いても決して中座せず、またどんなに酔いが回ってもほとんど態度を乱すことがなかった。そんな荘田についたニックネームは「箸箱」。同じ量をずっと飲み続ける様子が、四角くて長い箸箱にたとえられたのだ。ビールのラベルを発案するに至ったのも、そうしたアルコールへの思い入れが高じてのものだったのかもしれない。 丸の内ビル街の建設、長崎造船所の改革など、幅広い分野で輝かしい業績を残した荘田は、1921(大正10)年にすべての要職を引退。翌年、76才でこの世を去った。

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