歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールを飲む登場人物を生き生きと描いた近代文学の巨匠・夏目漱石
(なつめ そうせき)1867-1916/東京都〈江戸〉出身

小説に登場する印象的なビール

夏目漱石肖像写真

夏目漱石肖像写真(国立国会図書館 蔵)


明治維新直前の1867(慶応3)年、漱石は江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久町)で生まれた。小説を本格的に書きはじめたのが1905(明治38)年、38歳の時である。1916(大正5)年に亡くなるまでの10年あまりという短い作家人生の中で、現代に読み継がれる名作の数々が生み出された。

作品には、印象的な場面でビールの記述が数多く登場する。
デビュー作である『吾輩は猫である』では、ラストで人間の運命に無情を感じた主人公の吾輩=猫が、人間のように前後不覚になるほど愉快な気持ちを味わってみたいと、景気づけにビールを飲みはじめる。いい気分で酔っぱらった猫は水がめに落ちて命を落とすのだが、悲劇的な結末でありながら、漱石独自のユーモアを織り交ぜた文体は、実にさっぱりとした気分で読ませる。

1908(明治41)年から『朝日新聞』に連載された『三四郎』には、大学の懇親会の場面を以下のように著している。

此の會合は麦酒に始まつて珈琲に終わつている。全く普通の會合である。然し此の麦酒を飲んで珈琲を飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。しかも其の麦酒を飲み始めてから珈琲を飲み終る迄の間に既に自己の運命の膨張を自覚し得た (夏目漱石著『三四郎』)

また、続編として翌年同紙に連載された『それから』には、ビアホールに入った主人公がビールを飲む様子が描かれており、この頃になるとビールが庶民にも親しまれていたことがこれらの作品からも読み取れる。

漱石にとってビールをはじめとするアルコールは、小説の登場人物たちの内面世界を浮き彫りにし、人生を語るために重要な小道具の一つだったようだ。

文学三昧の日々を過ごしたロンドン留学

小説を書きはじめる5年前の1900(明治33)年から2年間、漱石は、文部省から英語研究のためにイギリスへの留学を命じられる。妻・鏡子と生まれたばかりの長女・筆子を残して単身ロンドンに渡った漱石は、生活費を切りつめ、より安い下宿を転々としながら、ひたすら文学に没頭した。かねてから教師生活に安住できず、文学三昧の生活を送りたいと願っていたのである。

しかし、日本から遠く離れた異国の地で文学の本質を追究するあまり、以前から悩まされていた神経衰弱がますますひどくなっていった。1902(明治35)年には、親友・正岡子規が亡くなったことを機に帰国の途につく。

このイギリス留学がなければ、作家・夏目漱石は誕生しなかったといっても過言ではないだろう。帰国後、高等学校や大学で講師を掛け持ちする生活を送っていたものの、いっこうによくならない神経衰弱を鎮めるために、高浜虚子にすすめられて書きはじめたのが『吾輩は猫である』であった。1905(明治38)年に虚子が主宰する文芸雑誌『ホトトギス』に発表されたこの作品で一気に文名が高まった漱石は、講師を務めていた東京帝国大学の教授の椅子を断って朝日新聞社に入社、職業作家として生きる決意をしたのである。

死に際した漱石が口にしたアルコール

「あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです」とは、小説『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』の中で、アルコールの弱い主人公に、同じ下宿仲間が言うせりふである。漱石自身、アルコールは強くなかったが、憂いを癒して気分を高めてくれるアルコールの効果を期待していたのだろう。酒宴を開いて巧みな話術を披露することもあったという。

一見気むずかしそうなイメージの漱石だが、面倒見がよく、弟子からは深く慕われていた。鈴木三重吉、寺田寅彦、森田草平、晩年には芥川龍之介や久米正雄など、多くの弟子が毎日のように自宅に集まってくるので毎週木曜日を面会日と決めていたほどであった。時には弟子たちの酒癖についてたしなめることもあったという。

1909(明治42)年1月9日の『国民新聞』に掲載されたエッセイに、漱石のビールに関するエピソードが書かれている。

私は上戸黨ぢゃあ有りません。一杯飲んでも眞赤になる位ですから、到底酒の御交際は出来ません。大抵の宴會にも出ない方です。酒を飲んで、氣分の變る人は何だか險難に思はれて仕様がない。何日か倫敦に居る時分、浅井さん(注1)と一處に、とある料理屋で、たったビール一杯丈飲んだのですが、大變眞赤になって、顔がほてつて街中を歩くことが出来ず、随分、困りました。日本では、酒を飲んで眞赤になると、景氣がつくとか、上機嫌だとか言ひますが、西洋では、鼻摘みですからね。
注1:画家・浅井忠のこと。 (武田勝彦著「あらゆる冒険は酒に始まる」/高山惠太郎監修『新・酒のかたみに』所収)

長年胃病に苦しんでいた漱石は、1916(大正5)年、再発した胃潰瘍の病状が悪化し意識不明に陥った。集まった親戚や弟子たちが見守る中、危篤状態だった漱石はふと眼を開け、「何か食いたいな」とつぶやいた。医者のはからいで漱石が最後に口にしたのは、一さじのブドウ酒であったという。
漱石と弟子や仲間たちの会合の場を描いた津田青楓画「漱石山房と其弟子達」

漱石と弟子や仲間たちの会合の場を描いた津田青楓画「漱石山房と其弟子達」 (日本近代文学館蔵)(c)Mari Suzuki & Japan Artists Association, Inc. 2006/06253


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