歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

陽気で社交的な愛飲家 初代内閣総理大臣・伊藤博文
(いとう ひろぶみ)1841-1909/山口県〈長州藩〉出身

アルコールをこよなく愛した初代総理大臣

伊藤博文

伊藤博文(国立国会図書館 蔵)


「伊藤博文」というと、何を思い浮かべるだろうか。松下村塾塾生、初代総理大臣、または大日本帝国憲法の作成者—。旧千円札の肖像画を覚えていらっしゃる方も多いだろう。

中学校の教科書にも登場する伊藤博文の功績は、一般によく知られている。士族よりも低い身分に生まれながら、吉田松陰の下で学び、同郷の桂小五郎(のちの木戸孝允)や井上馨らとともに幕末・維新の最前線で活躍した若き志士。明治時代に入ると政治家としての手腕を発揮して総理大臣にまでのぼりつめ、ドイツ国に学び日本初の憲法を制定した。武士以下の身分から国政の最高権力者にまで至ったその出世劇は、豊臣秀吉に比肩するほどの歴史的偉業であった。

伊藤の人となりは実に陽気で天真爛漫、そしてアルコールを交えた他人との付き合いを非常に好んだ人物であった。宴会の場では、しばしば子どものようにはしゃぐ姿が見受けられたそうだ。また毎日の晩酌も欠かさず、夜半に来訪する客も快く歓待したという。明治を代表する政治家は、明治を代表する愛飲家でもあったのだ。

ドイツを模範とし日本初の憲法制定

日本を近代国家へと導いた伊藤の政治哲学は、三度の渡欧経験によってはぐくまれたといえる。一度目は1863(文久3)年、まだ数えで23歳だった伊藤は親友の井上馨らとともにイギリスへ密航した。西洋の学問や軍事を学ぶ目的であった。二度目は明治維新後の1871(明治4)年から1873(明治6)年にかけて、岩倉遣外使節団の一員としての渡航である。伊藤は使節団の中心人物として、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国をまわり、列強の実情を見聞した。

そして三度目の渡欧は1882(明治15)年から1883(明治16)年にかけてのこと。目的は日本の憲法制定にあたり、列強各国の近代憲法を自ら学ぶためだった。

彼が特に参考にしたのがドイツ国憲法である。皇帝をいただいて統一への道を歩みつつあったドイツの政治体制に、明治維新後、富国強兵の道を歩む日本を投影し、強い親近感を抱いていた。ベルリンに入った伊藤は鉄血宰相とうたわれたビスマルクから歓迎を受け、政治学者や官僚らとともに勉学に励んだ。その一方で、政府高官として夜会など、社交の場に招かれることも多かった。彼はそういう場で、ビールをはじめとする西洋のアルコールに親しんだことだろう。

帰国後、伊藤はすぐに政治体制の近代化に着手。内閣制度を創設し初代総理大臣に就任し、みずから憲法起草の陣頭指揮を執った。そしてついに1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布されるのである。 伊藤の名は、日本初の近代憲法制定の中心人物として、そして明治時代を代表する政治家として、歴史に刻まれたのだ。

ビール片手の社交パーティー

伊藤は、政治体制の近代化ばかりでなく、日本の生活習俗の西洋化にも取り組んだ。その象徴的な存在が「鹿鳴館」である。 鹿鳴館は外国人をもてなす迎賓館として、外務卿の井上が伊藤らと相談して建設したものである。列強諸国の外交官に対し日本が文明国であることを示し、また日本の生活習俗の西洋化を促進するために、しばしば夜会や舞踏会が催された。着慣れぬ洋装姿で集う政治家や婦人たち。伊藤も蝶ネクタイにドレス・コートの姿で頻繁に参加していたようだ。

西洋風のパーティに西洋のアルコールは付き物である。伊藤にとって社交ダンスは二の次、様々なアルコールを楽しんでは、一杯機嫌で周囲に声をかけた。

「舞踏の合間々々に気の合った相手を連れて別室に入り、パンチかビールかで、喉の渇きを湿しながら話し合うのが夜会の例となっていた」と、当時の外務省翻訳官で伊藤に随行していた小松緑も書き残している(小松緑著『明治外交秘話』)。

また、自邸で開いた夜会でも、伊藤は「時々自ら喫烟室に来まして巻煙草はありや麦酒は充分なりや」と心を配っていたという(『東京日日新聞』1887年1月18日付)。

伊藤が夜会などでこのようにふるまえたのは、本場ヨーロッパで西洋流のマナーやもてなし方を身に付けたからかもしれない。生来人好きで社交性のあった伊藤は、政治家や婦人らが集い、ビールなどアルコールが並ぶパーティを生涯楽しんだのであった。
鹿鳴館で催された夜会の様子

鹿鳴館で催された夜会の様子(GAS MUSEUM がす資料館 蔵)


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