歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールを片手に東西の思想を会得した『武士道』の著者・新渡戸稲造
(にとべ いなぞう)1862-1933/岩手県〈盛岡藩〉出身

侍の精神を受け継ぐ思想家

新渡戸稲造

新渡戸稲造(国立国会図書館 蔵)


旧五千円札の肖像にも使われた新渡戸稲造。彼は、日本人の心に潜在的に受け継がれてきた「武士道」の精神と、西洋ではぐくまれたキリスト教の精神との懸け橋となることを目指した思想家である。また、母校・札幌農学校で教鞭をとり、東京女子大学の設立に携わるなど、若者の教育に従事した教育者でもあった。

新渡戸は、盛岡藩士の息子として1862(文久2)年に誕生した。三本木(現・青森県十和田市など)の原野を開拓した祖父・傳(つとう)を尊敬し、自分も将来は日本、さらには世界の発展に寄与できるパイオニアになろうと、政府が北海道開拓のための人材育成を目的に開設した札幌農学校に進学したのである。

同校では、創設に携わったアメリカ人のウィリアム・クラーク博士により西洋の先進的な知識や倫理が教えられていた。入学後、新渡戸はその薫陶を受けることになる。そして、のちに作家・思想家となる内村鑑三ら同期生たちとキリスト教徒となり、謹厳な学生生活を始めたのである。

実感する西洋の美徳、そして発見した武士道

自由な思想、博愛、堅実さ──新渡戸は多感な年頃の4年間にわたって札幌農学校で西洋の思想や倫理を体得し、卒業する。そしてその6年後、ヨーロッパに渡った。農学研究の目的で、ドイツ留学を命ぜられたのだ。

4年間にわたるドイツ生活は、新渡戸の人生の核ともなる実り多きものだった。学ぶことそのものによる充足感に加え、30歳の時にはデビュー作となる『日米通交史』を出版。そして最大の成果が、「武士道」の発見であった。

ドイツのボン大学に在籍していた時、ベルギー人のド・ラブレー教授に、日本の宗教教育とはどのようなものかと問われた。新渡戸は得意満面で日本の学校では宗教を教えないと答えたが、ならば善悪の判断はどのように教えるのかとラブレー教授は詰め寄るのである。返答に窮した新渡戸は自問し、その後も数年にわたり思案し続けた。そしてついに、日本人には聖書のような書物に頼らない以心伝心の道徳心が備わっていることを見いだしたのだ。その心は、特に江戸時代の侍の精神に由来するものであったため「武士道」と名付けた。

ビールに飲まれぬ強靱さを得て国際人となる

そうした充実した日々の中で、彼は日々盛んにビールを飲んでいたようだ。同じ頃にドイツに滞在していた、堀宗一という日本人と二人で食事をしていた時のこと。新渡戸があまりにもビールを飲むので、堀は軽く注意を促した。

堀:「君はいつ宗旨を代へたのだ」 新渡戸:「いやここではビールを飲まない者は悪性の病気を持つていると云ふから飲むで見た。近来は清涼に飲むでいるよ」 ※原文のまま掲載。 (石井満著『新渡戸稲造傳』/關谷書店)

「信心を変えたのか(禁酒し実直な生活を送るのをやめたのか)」と聞く堀に対して、新渡戸は「ドイツではビールを飲まない人は悪性の病気を持っているというから飲んでいるのだ」と言い返したのである。

当時、日本人留学生の品行が悪いという評判が立っていたため、堀は新渡戸の飲酒を非難したのだが、新渡戸は、信心深いドイツ人だって水と同じようにビールを飲んでいるのだから、飲酒するだけで堕落するはずがないというつもりで言ったのだろう。誰とでも交流し、奮って議論することを好んだ新渡戸であるから、ビールを片手に学問談義に花を咲かせることはしばしばだったと思われる。そして異国の友や恩師たちに「武士道」を説いて聞かせることもあったかもしれない。

ラブレー教授との対話から12年後、アメリカに滞在中の新渡戸は、祖国の美徳を世界に伝えようと『武士道』(原題:“Bushido, The Soul of Japan”)を執筆、英語で出版した。折しも日清戦争で日本が勝利を収め、日本人への興味が世界的に高まっていた時代のことである。『武士道』はドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語などの世界各国語に翻訳され、東西の国々で読まれることとなった。

この本をきっかけに国際政治の舞台に躍り出た新渡戸は、国際連盟事務局次長を6年間務めるなどして活躍。しかし1933(昭和8)年、講演旅行中のカナダで病に倒れ、客死した。それは「願わくはわれ太平洋の橋とならん」という名言を残した新渡戸の生きざまを象徴するかのような最期だった。
アメリカのフィラデルフィアで出版された『武士道』初版本

アメリカのフィラデルフィアで出版された『武士道』初版本(盛岡市先人記念館 提供)


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