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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

「キリンビール」発売の功労者 近代日本建設期の大商人・グラバー
(Thomas Blake Glover)1838-1911/スコットランド出身

「キリンビール」とグラバー

グラバー肖像

自筆のサイン

グラバー肖像(長崎歴史文化博物館 蔵)と自筆のサイン


日本が幕末維新の激動期を抜け、安定した成長期に入った1888(明治21)年、一つのビールが市場に登場した。ドイツ風ラガービールで、ラベルには古代中国の想像上の霊獣・麒麟が描かれていた。この霊獣の名を冠し、「キリンビール」と銘打たれたこの商品は、各地で大変な好評を博したのだった。

この「キリンビール」発売に深くかかわった外国人がいる。長崎の観光名所「グラバー邸」にその名を残すトーマス・ブレーク・グラバーである。グラバーというと、幕末に坂本龍馬や西郷隆盛らと幕府転覆に奔走した商人としても知られている。しかし維新後にも、炭坑の開発や三菱の事業拡大など、日本産業界の発展に大きな足跡を残した。そうした彼の業績の一つに、このビール産業への寄与が挙げられる。 日本のビール産業は、明治維新直後の横浜で産声を上げた。明治2、3年ごろには、横浜にいくつかのビール醸造所が開設されており、日本産のビールが、当初は在留の外国人向けに、のちには日本人向けに発売されていた。それでも、市場のシェアは輸入ビールが大半を占めていた。

グラバーはこういう状況下にあったビール産業界に参入を試みる。長年にわたる日本滞在の中で、日本人がビールを好むことも、ビールを産業として発展させるためには何をすればよいかも熟知していたのだ。

幕末のグラバーの功績

グラバーが最初に日本の地を踏んだのは、「キリンビール」発売からさかのぼること29年前の、1859(安政6)年のこと。来日の2年後の1861(文久元)年、長崎にグラバー商会を設立し、経営規模は小さいながらも、茶や石炭、木綿、毛織物などを扱い、着実に地固めをしていった。 時は幕末。いよいよ倒幕の嵐が吹き荒れ始めた頃である。グラバーは諸藩、特に倒幕派の先鋒であった薩摩、長州との結び付きを強め、船舶や軍需品を大量に販売した。その役割は物資の提供だけにとどまらず、海外渡航が禁止されていた当時、伊藤博文、井上馨らの長州藩士や、薩摩藩士・五代友厚らのイギリス留学を援助し、また佐幕派の刺客に狙われていた木戸孝允を私邸にかくまったこともあった。 グラバーが幕末時に果たした最も大きな功績は、坂本龍馬が仲介役をした薩長同盟の成立に尽力したことだろう。両藩が同盟を結んだ際には、どちらにも物資の提供をすることを約束したのだ。特に物資不足に悩んでいた長州藩はこの条件に飛びつき、両藩の密約が成立。その後グラバーは龍馬が起こした貿易結社・亀山社中の後ろ盾となって、倒幕のための物資手配に奔走した。後年、こうして倒幕運動に身を置いた自分自身のことを、「江戸幕府に対抗した叛逆者の中で、私が一番のつわものだった」と回顧したという。 今に残るグラバー邸は、まさにこの動乱の只中、1863(文久3)年に建てられた。現存する日本最古の木造洋風建築物であるこの邸宅内には、大きなサロンや応接室などが設けられている。日本の若き志士たちと盃を酌み交わしながら、日本の将来像について熱く語ったこともあっただろう。

日本のビール産業振興の功労者

明治維新が成ったのちも、グラバーは日本に滞在し続けた。このころには、日本に骨を埋める覚悟を持っていたようだ。商売を通じて多くの日本人と付き合い、苦難を共にする中で、日本と日本人に魅了されるところが大きかったのだろう。 1870(明治3)年に戊辰戦争終結のあおりを受けてグラバー商会は破産するが、産業界における役割が無くなることはなかった。彼は三菱の顧問に招かれ事業開拓を行い、また炭坑の開発などにも従事する。そうした新規事業の一つに、ビール産業への進出があった。 グラバーは、アメリカ人のコープランドが開いたビール醸造所「スプリングバレー・ブルワリー」が1884(明治17)年に閉鎖に追い込まれると、在留外国人や日本人の財界人など、ビール会社の設立に賛同する資本家たちを集め、その跡地や建物の購入を勧めたといわれている。こうして翌1885(明治18)年、「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」が設立した。そして、グラバー自身も設立後ほどなく重役の座に就くのである。 30年近くも日本に滞在していた彼は、日本の風土や生活文化にはきっとビールが普及する素地があると信じていたのだろう。多くの日本人と交流する中で、輸入ビールに舌鼓を打つ日本人も多く見てきたに違いない。そして日本で普及させるには、品質にこだわり、良い品を作らなければならないことも分かっていたのだ。 ジャパン・ブルワリーが目指したのは、本場ドイツのビールにも比肩するほどのクオリティを持つビールであった。そのため最新の醸造設備を整え、ドイツから醸造技師を招く。原料のみならず、ビールびんや醸造に用いるゴムホースにいたるまでドイツから輸入した。そして1888(明治21)年、ドイツ風のラガービール「キリンビール」が発売された。 ちなみにラベルの「麒麟」は、当時の西洋ビール商標に狼や猫などの動物が多く用いられていたことにならい、東洋の霊獣を商標にしようという意見から採用された。また発売翌年の1889(明治22)年、グラバーの提案により、「麒麟」を大きく描いたラベルが採用され、現在の「キリンラガービール」のラベルの原型となるデザインが完成した。この「麒麟」のマークのビールは市場を瞬く間に駆け抜け、日本の生活文化にビールが浸透する一つの契機を生むことになったのである。 晩年のグラバーは、鹿鳴館の書記官を務め、また自宅には来客がひっきりなしに訪れるなど、さながら社交界のリーダーといった役割を果たした。そうした場では、自らが発売に関わった「キリンビール」を飲むことも多かっただろう。政府高官や産業界の重鎮となった、かつての幕末の志士たちに「キリンビール」のびんを傾けながら、どんな昔話に花を咲かせたのだろうか。
1889(明治22)年にデザインが変更されたラベル

1889(明治22)年にデザインが変更されたラベル


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