歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールを抱えて軍地に赴任した日本陸軍騎兵隊の父・秋山好古
(あきやま よしふる)1859-1930/愛媛県〈松山藩〉出身

友と飲むために日本から清へビールを運ぶ

秋山好古

秋山好古(国立国会図書館 蔵)


「男子は生涯一事をなせば足る」──軍人・秋山好古は、この言葉を揺るぎない信念とし、明治・大正期の日本陸軍騎兵隊を世界のトップレベルにまで鍛え上げた「日本騎兵の父」だ。

軍人に豪傑は多いが、好古もまたその一人である。その上彼は、万人が認める「酒豪」で、ビールをはじめ、日本酒、焼酎、ウイスキーと、アルコールならば種類を選ばなかった。朝まで飲み明かすことも少なくなかったという。

人生のほとんどを軍隊で過ごした好古は、戦場の外では毎日のように同志らとアルコールを楽しみ、戦場に赴けば、弾丸が飛び交う前線でも、司令部で作戦を練るときでも、常に片手に酒びんを握っていた。そんな好古の、ビールに関する興味深いエピソードが残されている。 日清戦争も終わり、彼が清国駐屯軍司令官だった頃の話である。東京へ帰国したのち、再び天津へ向かおうという好古の家に、知人からぎっしりとビールが詰まった化粧箱(進物用の装飾を施した大箱)が届いた。それには「秋山好古様、青木宣純様」と二人の宛名が記されていた。すると好古は、青木も共に清に駐在しているため、そのビールの山を清まで運ぶというのである。そんな夫にあきれた秋山の妻は、なんとかあきらめさせようとしたのだが……。

夫人は将軍(※1)に、「こんなビールはあちらにもいくらもあるのでせうから、あちらで買つて青木さんにあげたらいいぢやありませんか」といつたに対して将軍は、「それはいけない、二人の名宛てで贈つて来たのだから、あちらへ持つて行つて、二人でのまにやいけない」と言つて、その重いビール箱を遂に天津まで持参したのであつた。
※1:夫・好古のこと。(秋山好古大将伝記刊行会編『秋山好古大将伝記』)

好古にしてみたら、「連名でもらったビールなのだから、二人で分け合わないといけない」ということなのだろう。律儀で義理がたい彼の性格をよく伝えている。厳しい戦地において、友と酌み交わすビールは、何ものにも代え難い楽しみであったにちがいない。

貧しさを踏み台に世界一の騎兵隊を組織

秋山好古は1859(安政6)年、伊予松山藩士、秋山久敬の三男として生まれた。そもそもが下級藩士だった上に、明治維新によって藩が崩壊したことで生活の糧が失われ、秋山家は困窮の度を増した。

そんな折、のちに東郷平八郎のブレーンとなる好古の弟・真之が誕生。貧しいゆえにこの子を育てられないと思った父は、真之を寺に預けようとした。ところが、これをまだ10歳だった好古が「うちがお金をこしらえてあげるぞな」といって制止したのだ。

学校では成績優秀だった好古だが進学をあきらめ、生活費を稼ぐために働き始めた。ただし修学の志は高く、風呂たきや番台の仕事で稼いだ安い賃金の一部で本を買い、独学した。将来の出世を支えるハングリー精神は、幼い頃から備わっていたのである。

16歳になった好古は、「月謝と生活費がタダで、小遣いまでくれる学校がある」と耳にする。師範学校のことだった。19歳未満は試験を受けられなかったにもかかわらず、年齢をごまかして見事合格。熱心に学び卒業した後、師範学校の教師となり、月給30円(当時の1円は米2kg程度)をもらう身分となったのだ。

1877(明治10)年、好古は上京し陸軍士官学校の騎兵科に入った。当時の日本騎兵隊は、小さな日本馬20頭を用いる程度の二個大隊で、「無用の長物」と嘲られていた。そんな騎兵を志願したのは、ひとえに「少尉になれば給料がもらえる」からだった。

好古はこの士官学校時代から、すでに「酒豪」と呼ばれていた。上官に有名な酒客がおり、この人物から気に入られた彼は、夜ごと上官宅に入り浸っては朝まで酒をふるまわれていたという。

1883(明治16)年、陸軍大学校に入学した好古は、その3年後に騎兵の研究を命ぜられフランスに留学。ここでヨーロッパの優れた騎兵戦術を体得すると、帰国後は日本騎兵隊の改革に情熱を傾け、日清戦争までに騎兵七個大隊を編成した。そして、日清戦争では遼東半島で騎兵の威力をまざまざと見せつける活躍をおさめ、刷新された騎兵隊の初陣を飾ったのだ。陸軍は、これにより騎兵の必要性を認識するのである。

騎兵隊の第一人者となった好古は、ときに馬上でビールをラッパ飲みしながら進軍した。隊長が余裕の構えを見せることで、部下たちの緊張感を和らげるとともに、隊の士気高揚を図ったのだろう。

酒癖のよい生粋の日本軍人

日清戦争後、好古は乗馬学校(のちの騎兵学校)の校長となり、さらに陸軍騎兵大佐に昇進した。そしていまや旅団にまで躍進した騎兵隊を率いて日露戦争に挑むと、激戦の末、なんとロシア帝国の誇る「コサック騎兵隊」を破ったのだ。この快挙に世界中が驚き、好古の名は列強諸国にまで轟くこととなった。

一躍出世を遂げた好古だが、せっかくもらった給料が、家に持ち帰るまでの間に、ほとんどビールやウイスキーに化けてしまうこともあったという。上級軍人の給料が一夜にして酒代に消えるとは、彼の酒豪ぶりがうかがわれるというものだろう。

しかし、当時の好古を知る人は「飲んで酔うことはあっても、酒にのまれたことはない」と語っている。どんなに飲んでふらふらになっても、きちんと家へたどり着き、泥酔して我を忘れるようなことは生涯を通じて決してなかったという。

「男子は生涯一事をなせば足る」──日本の騎兵隊を世界一に仕立て上げることをもって、有言実行した秋山好古。いかにも明治の軍人らしく、勤勉かつ豪快だった好古は、晩年、故郷の松山で中学校の校長を務め、1930(昭和5)年にこの世を去った。

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