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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールを酌み交わし政敵と結束 西洋文化導入の立役者・井上馨
(いのうえ かおる)1835-1915/山口県〈長州藩〉出身

近代化を願いビールで乾杯

外務卿時代の井上馨

外務卿時代の井上馨(国立国会図書館 蔵)


近代日本黎明期の政治家、井上馨。攘夷論の嵐が吹き荒れる中、開国論を訴えながら幕末・維新の時代を駆け抜け、明治政府樹立後には対外条約の改正、国内の諸制度の整備に尽力した人物である。また彼は、文明開化のシンボル「鹿鳴館」の構想を描き、実現させた。まさに新時代の土台を築き上げ、日本に新風を吹かせた功労者の一人といえよう。

維新後に彼が行った功績の一つに、「大阪会議」の実現がある。

新たに船出した明治政府であったが、版籍奉還、廃藩置県など旧体制を刷新する政策を次々に実行していく一方で、職を失った武士たちから不平が漏れ、政情不安のぬぐいきれない状態が続いた。大久保利通率いる政権内の内情も芳しくなかった。

そこで大久保は、かつてともに倒幕を成し遂げたものの、思想の違いなどからたもとを分かっていた木戸孝允と板垣退助を政府に引き入れようとした。このとき大きな役割を果たしたのが井上馨である。大久保の盟友である井上は、同郷の士で同志でもあった伊藤博文と画策し、大久保と木戸・板垣の間を取り持ち、会談を実現させたのだ。それが1875(明治8)年に開かれた「大阪会議」である。この会議で話し合われた立憲や法律に関する事柄が、その後相次いで実現に至ったことから、極めて歴史的意義の高い会議だったといわれている。 一時は決裂していた者たちは、腹を割って話し合った結果、再び昔のように同じ志で結びついた。伊藤博文がのちに残した談話によると、会議最終日、彼らは会議の成功を祝って酒杯を手に取り、日本の未来のために乾杯をしたという。

木戸・大久保両公と板垣・井上が集つて会議を開いて酒を飲んで大坂会議はおしまいになつた。 (大久保利和ほか編『大久保利通文書』)

大阪会議の会場となったのは、北浜の料亭「花外楼」。この店の当時のメニューに「ビール」があったというから、この日、彼らが飲んだ「酒」とはビールであった可能性がある。大阪会議の後、時代は急速に近代化を遂げていくことになる。その起点となった場において西洋伝来のビールが飲まれていたとしたら──。まさに象徴的な出来事だったといえないだろうか。
大阪会議が開かれた当時の花外楼外観

大阪会議が開かれた当時の花外楼外観。大福帳に書かれた当時のメニューには、「ビール」の文字が見える(花外楼 提供)

イギリス密航で培われた近代化への情熱

井上馨は、1835(天保6)年11月28日、長州藩(現・山口県)で誕生した。初めて江戸に出たのは20歳の頃。そこで見たのは、黒船の来航により混乱した世の中だった。「海軍力を拡充することで攘夷を実行すべき」──そう悟った井上は蘭学や砲術を修め、海軍研究に傾倒すると、長州藩から許可を得てイギリスへ渡航。ただし、当時の幕府は自由な海外渡航を認めていなかったため、井上は「密航」したことになる。あえて危険を冒すほどに、井上の情熱は強かった。このときの仲間には、のちに初代総理大臣となる伊藤博文がいた。

目を見張るような蒸気船や、自由な気風漂う街……イギリス滞在中に井上が痛感したこと、それは西欧の繁華な発展ぶりに比べた日本の政治的・文化的な貧弱さであった。「日本が列強諸国と対等に渡り歩くには、西欧化・近代化を進めるしかない」。近代国家であるイギリスを目の当たりにした彼は、元来の攘夷論を捨て、日本の近代化を志すようになる。

井上がイギリスでカルチャーショックを受けていた当時、出身藩である長州藩は激動の渦中にあった。外国人排斥を訴える攘夷論が藩論となり、1863(文久3)年、具体的行動として下関海峡を航行する外国船に対する砲撃を実行したのだ。その報復として英・米・仏・蘭の四カ国連合艦隊は長州藩の港を一時占拠する。異国の地でこの事態を知った井上は、伊藤らとともに直ちに帰国。イギリスで得た知見をもとに藩士らを説得し、攘夷一辺倒だった長州藩の藩論を鎮めることに腐心した。 その後長州藩は薩摩藩と結束し、倒幕勢力の中心となる。藩を動かした井上は、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らと結束して、江戸幕府打倒を成し遂げたのである。

鹿鳴館時代を演出した後半生

維新達成後新政府内で活躍し、大阪会議などで功のあった彼は、1879(明治12)年に外務卿となる。

開国から20年以上の歳月がたち、西洋文化もかなり浸透していた。しかし、いわゆる「不平等条約」が物語るように、日本は西洋からさげすまれた立場にあった。これを改めさせようと井上は動く。日本の文化水準も、西洋に負けず劣らず高いのだということをアピールしなければならない。そこで、文明開化のシンボルとし、かつ海外の要人と交流を深め不平等条約改正のために役立てるべく、洋館の建築構想を浮かべたのである。

1883(明治16)年11月28日、東京・日比谷に「鹿鳴館」はオープンした。建築費18万円(現在の数十億円に相当)。建坪410坪の土地にあらわれたのは、イタリアルネッサンス様式に英国風を加味した瀟酒(しょうしゃ)なレンガづくりの2階建て。井上自らが招いたイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルの設計によるものだ。

オープン当日は、井上と夫人の武子が主催した舞踏会に、西洋風の衣装に身を包んだ国内外600人の紳士・淑女が集ったという。以来、夜ごと舞踏会が開かれ、人々は西洋の料理、酒、そして文化に魅了され、鹿鳴館に吸い込まれていった。

鹿鳴館で飲まれた酒は、もちろん西洋から伝わったビール、ワインなどであった。この鹿鳴館という一つの建物をめぐる歴史と文化は、「鹿鳴館時代」というエポックをつくり上げる。

しかし、井上の思惑もむなしく、不平等条約の改正は遅々として進まなかった。その責任をとり外務大臣を辞任した彼は、その後、農商務、内務、大蔵大臣を歴任し、晩年は元老の一人として政界に臨み、1915(大正4)年にこの世を去った。

生涯をかけて日本の西洋化を目指した井上は、晩年も日本酒ではなく、ビールなどの西洋伝来のアルコールを好んだという。ときには、外交交渉が思うように進展せず、はがゆい思いをしながら、ほろ苦いビールを口にすることもあったかもしれない。

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