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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

異国の地で留学仲間とビールを酌み交わした西洋近代思想の啓蒙家・西周
(にし あまね)1829-1897/島根県〈津和野藩〉出身

黒船ショックをきっかけに西洋学問を志す

西周

西周(国立国会図書館 蔵)


明治初期を代表する思想家であり、西洋学問の先駆者であった西周。発足したての明治新政府にあっては近代軍制の整備に努め、一方で『致知啓蒙(ちちけいもう)』など多数の思想書を著述した。その業績の大きさは、「哲学」、「芸術」、「理性」など彼が考案した多くの翻訳語が、現代では一般的な日本語として使われていることからもうかがわれる。

西は、1829(文政12)年、津和野藩(現・島根県)藩医の嫡子として生まれた。当時の藩主・亀井茲監(これみ)は人材育成に力を入れており、藩校である養老館では、家老格から下級武士までが同じ講堂で講義を修めていたという。好学の気風が藩全体に充満する中、青年・西周は儒教や朱子学を学び、のちにはより実用を重視する徂徠(そらい)学へと傾倒していく。
多くの志士と同じように、彼の人生の一大転機となったのは黒船来航であった。ペリーがはじめて浦賀湾に現れた1853(嘉永6)年、沿岸防備のための藩士派遣に加えられ、急きょ江戸へ上った。そして黒船を眼前にし、日本における学問の貧弱さを嘆いた。

喉元に突きつけられた凶器ともいうべき、黒船の大砲に無謀に立ち向かうことではなく、また大砲という物資を購入すれば、こと足れりというものでもなく、むしろ大砲を造り、それを用いている人間と、それらの人々によって成り立っている社会制度、即ち西洋の「文物制度」を学び、その長所を日本人に知らしめることが急務である。

(島根県立大学西周研究会編『西周と日本の近代』)


世情が開国か攘夷かで二分する中、これほど冷静に西洋学問の必要性を考えていた人物は珍しいだろう。西はこのときの決意に従い、洋学に専念するため脱藩を願い出る。当時の脱藩は親子・兄弟までが罪に問われるほどの重罪。しかし、彼は罪に問われるどころか、藩から「無期限の暇(いとま)」を与えられた。「西洋の文物制度を日本人に知らしめたい」という熱意が、学問を重んじる藩主にまで届いた結果であった。
西が私塾・育英舎で行った講義 「百学連環」のための自筆メモ書き

西が私塾・育英舎で行った講義 「百学連環」のための自筆メモ書き(国立国会図書館 蔵)

南国で飲んだ氷入りビール

脱藩し自由の身となった西は、ジョン万次郎らから英語を学び、洋学を身に付けていく。やがて彼の語学力は広く知られることとなり、幕府が洋学の研究・翻訳のために設置した蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授手伝並に登用された。

この頃から、日本における修学に飽き足らなくなった彼は、蕃書調所の同僚・津田真道(まみち)とともに留学運動に奔走した。1862(文久2)年、その願いが幕府に通じ、造船技術習得を目的とした幕府派遣の留学団の一人に晴れて選ばれる。留学先はオランダ。一行には、海軍操練所の士官だった榎本武揚をはじめ、赤松則良、内田正章、津田真道らがいた。

出港地である長崎からオランダへは、およそ7カ月の航路であった。その途上、バタビア(現・ジャカルタ)の港に滞在中、彼らはビールを口にする機会を得る。そこで氷入りのビールを口にした西は、思わず「甚だ快」と漏らしたという。はじめて体感する南国の暑さから、ひとときの解放を得たのだろう。

留学団一行は、航海中もオランダ滞在中もビールをはじめアルコールを飲む機会に恵まれていたようだ。赤松則良がその前半生を回顧した『赤松則良半生談』の中には、渡航中に船員が「私たちを迎へ葡萄酒や麦酒を飲まして呉れる」とある。また、留学中にビールの味を覚えたと思われる榎本武揚は、帰国後ビール党として名を馳せている。

オランダに到着した西は、ライデン大学のフィセリング教授に付き、性法(自然法)、万国公法、国際法、経済学、統計の5科を学んだ。しかし、異国での生活は学問一筋ではなかっただろう。ときには現地の人々とビールを酌み交わしながら、「西洋の文物制度」を吸収していったのではないだろうか。

徳川幕府の復権をかけた「議題草案」

日本に帰国した西は、開成所(蕃書調所が発展した機関)の教授職に就き、将軍・徳川慶喜の政治顧問となった。

1867(慶応3)年10月13日、二条城大広間にいた慶喜からにわかに召し出される。このとき、城内では大政奉還をめぐる論議の真っただ中にあった。彼は大広間の廊下に障子屏風をめぐらして、その中に座していた慶喜の求めに応じ、イギリスの議会制度や三権分立について詳細に論じたという。

その翌日、大政奉還が実現する。しかし、このとき慶喜は新たなる政権構想を抱いていた。

11月になると、西は慶喜へ大政奉還後の政治体制を示した「議題草案」を提出する。その内容は立法、行政、天皇の権限の分立を説き、立法(議会)の長に慶喜を据えるという、日本初の憲法私案といえるものであった。政治的に追い込まれた徳川家による新国家構想として、西がこれまで培ってきた学問・知識が遺憾なく発揮されたのだ。

しかし、この起死回生の草案は、12月に発せられた王政復古の大号令によって歴史の闇に葬られてしまった。その後、西は慶喜に従い江戸へ退去。さらに慶喜の蟄居先である静岡まで付き従った。

明治維新後の彼は、兵部省出仕となり、徴兵令・軍人勅諭などに関わる。また加藤弘之や福沢諭吉らと「明六社」を結成し、多数の論文・著述を発表するなど啓蒙活動につとめた。そうした業績は、まさに「西洋の文物制度を日本人に知らしめたい」という若き日の誓いにたがわぬ活躍であった。

西が他界したのは1897(明治30)年1月31日のこと。享年69。バタビアで飲んだビールのごとく、「甚だ快」といえる生涯だったのではないだろうか。

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