歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

西洋でビール工場を視察した近代国家の立役者・大久保利通
(おおくぼ としみち)1830-1878/鹿児島県〈薩摩藩〉出身

西郷との二人三脚で幕府を打倒

大久保利通

大久保利通(国立国会図書館 蔵)


反幕府勢力を糾合して倒幕を果たし、維新回天を成し遂げた2人の英雄──大久保利通と西郷隆盛。薩摩藩出身の両雄は、若かりし頃からの盟友であり、車の両輪のように幕末・維新の政治を動かした。

大久保利通は、1830(天保元)年、鹿児島城下の下加治屋町に生をうけたとされる。くしくも同じ下加治屋町で西郷隆盛が誕生したのは、わずか3年前の1827(文政10)年のこと。同じ町内で3歳違い、しかもどちらも下級武士の家に生まれた2人が、竹馬の友として育ったのは、しごく当然のことであった。

やがて藩政の中枢にのぼり詰めた大久保は、尊王攘夷運動から討幕運動へと連なる激動の渦中で、西郷とともに中心的な役割を演じた。生まれながらのカリスマ性と大胆な行動力で長州藩との間に薩長同盟を締結し、倒幕軍を率いた西郷を「光」とするなら、大久保はまさに「影」だ。冷静沈着な政治力と目的完遂までのねばり強さをもって朝廷を動かし、倒幕軍を「官軍」とすることで鳥羽・伏見の戦いを勝利に導いた。大久保は、その長所のみならず短所も知り尽くす西郷と巧みに連携をとりながら、日本を明治維新へと導いたのである。

岩倉遣外使節団でビール醸造法の詳細を視察

倒幕後、船出したばかりの明治新政府を牽引したのも、やはりこの2人であった。大久保は東京遷都を実現し、版籍奉還と廃藩置県によって幕藩体制に終止符を打つなど内政を担当。一方、戊辰戦争を勝利に導いた西郷は、主に軍事部門の整備を担当した。

1871(明治4)年、欧米諸国に学び近代化の道筋を見出そうとした新政府は、右大臣の岩倉具視を特命全権大使とする岩倉遣外使節団を派遣する。大久保は副使として使節団に参加し、西郷は参議として留守政府を担った。新政府の実質的なリーダーでありながら長期間にわたって日本を離れなければならなかった大久保は、留守政府の高官にしばしば書状を送っている。1872(明治5)年、西郷とその親友の元薩摩藩士・吉井友実に宛てたイギリスからの手紙には、各地で様々な工場を視察したことが記され、「『バーミンハム』麦酒製作所」などの名が見える。近代産業技術の摂取も使節団の目的の一つだったのだ。岩倉遣外使節団の正式な報告書である久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』では、「(近代諸国では)国民が開明富饒になるに従って、飲料の精美を好むようになり、飲料の消費が高くなる」としたうえで、そうした飲料類の代表にビールをあげている。ビール産業が特に重要視されていたことがうかがわれる。また、一行はイングランド中部、バートンにあるオールソップ社のビール工場を視察し、ビール醸造法を具体的かつ詳細に調査している。

ところが、日本に残り報告を受けていた西郷は、欧米に感化されつつある大久保らの態度に危惧の念を持っていた。西洋の文物に直接触れていなかったせいもあるだろう。自らの洋装の写真を送ってきた大久保に対し、「このような醜悪な写真はやめるべきだ」という主旨の返書を送ったとされている。
岩倉使節団の主なメンバー。右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允

岩倉使節団の主なメンバー。右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允(山口県文書館 蔵)

近代化の方向を決定づけた直後の死

西郷とともに二人三脚で歩んできた大久保だが、蜜月時代の終わりは使節団の帰国後、唐突に訪れた。

契機は1873(明治6)年に勃発した征韓論争であった。日本からの修好要求を拒み続ける朝鮮に対し、西郷は自ら使節団長となり交渉に当たりたいと政府に要求する。しかし、内治優先を主張する大久保は、この朝鮮への使節派遣に真っ向から反対した。明治政府を二分する政争にまで発展したこの論争は、結局、宮廷工作に優れた大久保が政治的勝利をつかみ、西郷は官職を辞して下野することで決着を見る。鹿児島へ帰郷しようとする西郷を必死に止めた大久保だったが、西郷が「どうしてもいやだ」と突っぱねると、最後には「勝手にしろ」と応じたという。30年以上にもわたりともに歩み続けた盟友との、あまりにもあっけない決別だった。

それから4年後の1877(明治10)年、西郷が、不平士族とともに鹿児島で反政府の旗幟を揚げた。大久保は当初、西郷の決起をなかなか信じようとしなかったが、それが事実とわかった後には京都で総指揮をとり西郷軍の鎮圧を目指すこととなる。ここに、明治期最大の反政府反乱である西南戦争の幕が切って落とされた。

兵力に勝る政府軍の攻撃によって、西郷軍は徐々にその数を減らしていく。鹿児島の城山に追い詰められ、十重二十重の官軍に囲まれた西郷は、弾雨が降り注ぐ中、自ら腹を切った。享年51。思想家の内村鑑三がのちに「武士の最大のもの、また最後のもの」と評した傑物の最期だった。この結果から、欧米にならって近代産業化の道を選択した大久保に軍配が上がったということができるかもしれない。紆余曲折を経ながらも、日本は着実に近代国家への道を歩み始めていたのである。それは、大久保が欧米を視察しながら見定めた未来像であるとともに、西郷が疑念を呈した日本像でもあった。大久保の勝利が、日本の近代化の方向性を決定づけたといっても過言ではない。

西南戦争終結からわずか8カ月後、大久保は東京の紀尾井坂で暗殺される。主犯の島田一郎は、西郷隆盛を敬愛する石川県の士族であった。西郷の死後も「西郷の心情は俺だけがわかっている」と言い続けていたという大久保だが、運命とは皮肉なものである。

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