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歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

イギリス人とビールを酌み交わした薩摩藩きっての若きエリート・小松帯刀
(こまつ たてわき)1835-1870/鹿児島県〈薩摩藩〉出身

新時代の転回点・薩長同盟成立の立役者

小松帯刀

小松帯刀(国立国会図書館 蔵)


維新前夜、尊皇攘夷派として動乱の世を駆け抜けた志士に小松帯刀がいる。尊攘運動の中心的役割を果たした薩摩藩を統率し、西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕を推し進めた男だ。

彼は、下級武士や草莽(在野)の志士が中心だった倒幕派活動家の中では珍しく、門閥の出身である。薩摩藩家老職の家柄である肝付(きもつき)家に生まれ、同じ家格の小松家を継いだ。開明派藩主・島津斉彬に若くして重用される一方で、下級藩士の勤皇グループである精忠組を指導。28歳で家老職に就くと、藩政改革を推進しながら、幕府や他藩との交渉役も担当した。薩摩藩きってのエリート官僚だったのである。

小松が幕末に残した功績として最も大きいものが、1866(慶応2)年の薩長同盟の成立であろう。

薩長同盟とは、土佐の坂本龍馬を仲立ち人として、西南雄藩の二大勢力でありながら反目していた薩摩藩と長州藩が手を結んだ密約のことで、この成立により幕府滅亡が決定づけられたといっても過言ではない。こうした歴史的転回点に、彼は、西郷隆盛とともに自藩の代表として出席していたのだ。同盟の合意事項をまとめた文書に、龍馬が朱書きで記した同意文には「小松帯刀、西郷隆盛、桂小五郎、さらに坂本龍馬らが同席して話し合った内容に、少しも相違ありません」とある。

外交官らの特権だった幕末のビール

薩長同盟成立の翌年に小松は、訪問先の大坂で、イギリス2代目公使パークスの通訳であるアーネスト・サトーの昼食会に招かれた。ここで彼がビールを飲み、非常に上機嫌になったことが、サトーの記録に記されている。

彼は、脂肪の多い肝のパテや、薄いビールをうまそうに、ぱくつき、飲みほし、しまいにはあまりに上きげんになり過ぎたので、この宿舎には徳川の家臣も多勢いることとて、うっかり秘密をもらしはせぬかと、はらはらした。

(アーネスト・サトー著『一外交官の見た明治維新 上』/坂田精一訳)


まだ珍しかったパテを食らい、緊迫する状況下で昼間からビールを飲み、酔うとは、薩摩藩の対外的交渉を一手に引き受けていた小松の、肝の大きさをかいま見せるエピソードといえるだろう。

当時、日本国内にあるビールのほとんどは、駐留外国人のために輸入された嗜好品である。そのため、国内でビールを口にできる日本人は、外交官などごく限られた立場の者だけだった。

それだけに、そのおいしさを知ってしまった者は、ビールを飲む機会を非常に楽しみにしていたことだろう。「上きげん」になっていたのは、小松だけではない。長州藩で軍艦長を務めていたある藩士は、横浜の商会を訪ねた際にはいつも長居をして、ビールとビスケットを終日飲み食いしていたと、会計係のイートンという人物が回想している。
小松帯刀が成立に立ち会った「薩長同盟」の密約控え

小松帯刀が成立に立ち会った「薩長同盟」の密約控え(宮内庁書陵部 蔵)

若すぎる死を惜しまれた好漢

幕末の薩摩藩を牽引した小松は、明治維新後も参与や外交事務掛などの要職を歴任するが、1870(明治3)年に大阪(1868年に大坂より改称)の地で病没する。享年36。周囲の誰もが惜しんだ早すぎる死だった。

生前に接した者で、小松のことをほめない者はいなかったという。彼は出身藩や身分にかかわらず他人の面倒をよく見ており、刺客にねらわれる危険人物であった坂本龍馬を自分の別荘に招いて厚遇したこともある。誰にも慕われる好漢だった。
小松とビールを酌み交わしたサトーも、回想録の中で以下のように記している。

小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が優れ、それに友情が篤く、そんな点で人々に傑出していた。

(アーネスト・サトー著『一外交官の見た明治維新 上』/坂田精一訳)


サトーにとって、ビールを介した小松との交流は、楽しいものだったに違いない。

薩長密約控(朱筆裏書き)

表に御記被成候六條ハ小(小松帯刀)西(西郷隆盛)両氏及老兄(桂小五郎)龍(坂本龍馬)等も御同席ニて談論セし所ニて毛も相違無之候
後来といへとも決して変り候事無之ハ神明の知る所ニ御座候
丙寅(※)
二月五日 坂本龍(坂本龍馬)
 ※1866(慶応2)年

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