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歴史人物伝 歴史人物伝

日本のビール醸造の開拓者たち

ウィリアム・コープランド

ウィリアム・コープランド

日本で初めて産業として継続的に
ビールを製造した「日本ビール産業の祖」
William Copeland、1834-1902/ノルウェー出身

スプリングバレー・ブルワリーの醸造

1870(明治3)年、コープランドは「ブラフ」と呼ばれた山手の居留地123番など4区画2480坪の土地に、ビール醸造所、スプリングバレー・ブルワリーを建て、ビールを醸造しました。現在、横浜市立北方小学校やキリン園公園のある一帯です。地形は両側を丘で囲まれた谷間で、敷地の一角には一周200メートルばかりの池がありました。

敷地の東半分は丘陵地で、地下には全長210メートルの横穴が掘られており、数多くのビール貯蔵樽が収容されていました。夏でも温度がさほど高くならないのでビールの熟成には好都合でした。敷地の西側は平地で、醸造所や付属の施設、住宅が並び、ビアサルーンに使われる小さい建物もありました。敷地内には数個の湧水があって、ビールの醸造用水として使われましたが、湧水のひとつは池にも流れ込んでいました。この池の水は麦芽粉砕用の水車を回す動力に使われ、また、消火用にも役立てられていました。

コープランドがスプリングバレー・ブルワリーでビールを醸造していた頃は、ビール醸造に電力や蒸気力はまだ使用されず、人力、水力もしくは馬力が動力でした。機械といえるほどの機械は極めて少なく、木製の道具を使ってビールづくりが行われていました。

スプリングバレー・ブルワリーの工場には、麦芽製造所に大麦浸漬タンク(鉄製)1台、発芽床2面と麦芽焙焼装置がありました。大麦と水を大麦浸漬タンクへ入れ、水替えをしてから浸漬を続け、大麦に充分水を含ませたのち、大麦を発芽床にひろげて数日間おいて発芽させます。発芽した大麦は麦芽焙焼装置で乾燥させ、更に熱をかけて焙焼します。この焙焼装置から出る煙は高さ60フィート(約18.2メートル)の耐震煙突に抜けるようになっていました。

焙焼した麦芽を粉砕する粉砕器は、人力用と水力用が1台ずつ備えられていました。水力用は構内の池の水を水路に引き入れて、水車を回して動かすものでしたが、後には馬力用に変わりました。

仕込室には、ボイラーと呼ばれた大釜が1台あり、石炭や薪で水や麦汁を加熱しました。大釜の湯と粉砕麦芽を木製の仕込桶に入れ、作業員が櫂(オール)を使ってもろみの攪拌を行います。糖化が終わるともろみは仕込桶の中仕切りの細孔を通ってろ過されて、下に置かれた麦汁溜用の桶に流れ落ちます。溜った麦汁は手押しポンプで大釜に移しホップを加えて煮沸し、さらに麦汁を澄ませるためアイリッシュ・モス(海草の一種)を加えました。煮沸を終えた麦汁は、トタンで内張りした広大な浅い木製の箱(冷箱)に入れて熱を冷ましました。

冷やされた麦汁は発酵室内の発酵桶に入れ、米国サンフランシスコから取り寄せた醸造酵母を添加して主発酵を行わせたのち、地下の横穴内の貯蔵樽で後発酵を行いました。冷凍機がない時代でしたから、発酵温度を低く保たなければならないラガービールは、寒い季節の10月から3月までの間に仕込みをし、夏から秋にかけての出荷ビールのつくりだめをしていました。

ビールろ過は、ろ過機がない時代でしたので行われず、代わりに貯蔵樽の上澄みを別の樽に移し替える“おり引き”の方法で清澄化が図られました。樽詰室はコンクリート床で、84フィート(約25.6メートル)×30フィート(約9.1メートル)の広さでした。びん詰室の中には手動式のびん詰機、コルク打栓機のほか、ボイラー(大釜)1台、びん洗い場、樽洗い場、樽職人の作業所、醸造技術者の事務室がありました。

コープランドは1877(明治10)年夏以降、びん詰ビールをパストリゼーション(低温殺菌)しています。この方法は、大釜にびん詰ビールを入れ、ポンプで水を大釜に入れてから火をつけて加熱し、おそらく60℃ぐらいに保って殺菌をしたものと推測されます。パストリゼーションはパストゥールにより発明された殺菌法ですが、パストゥールがビールに低温殺菌法を適用した論文を発表したのは1876(明治9)年のことですから、その翌年にコープランドはいち早く採り入れたことになります。

スプリングバレー・ブルワリーは1876(明治9)年初めに醸造所を建て直しますが、建て直し前の年間ビール製造高は約160KLと推定されます。建て直し後の1ヶ月のビール製造能力は24000ガロン(約90KL)との記録がありますが、年間製造高の記録は残っていません。

終わりに購入面については、原料(大麦、ホップ)、酵母および各種の材料、器具類は輸入にたより、主に米国サンフランシスコから購入していました。ただし、大麦は国内産のものを買うこともあり、びんは主として上海、長崎から、時には地元横浜からビールの古びんを購入して使用したこともあります。上海や長崎からは、ビールびんは返却される空樽に詰めて送らせていました。
キリン園公園にある麒麟麦酒開源記念碑

キリン園公園にある麒麟麦酒開源記念碑


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