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テーマ別解説

ビール広告の歴史

(4)新しい広告手法を模索
国産ビールの競争が激しくなった明治20年代には、広告業界全体にさまざまな変化が起きた。すなわち、紙媒体による広告だけでなく、屋外広告なども大いに利用されるようになった。

印刷物以外の広告としては、まず看板があげられる。国産ビールは草創期から特約店制度があり、特約店には会社側から商品名を大書した木製看板が提供された。消費者はそれを目印に、目当てのビールを売っている店を探した。

街路には、太鼓やラッパを用いた宣伝楽隊が登場した。「キリンビール」の総代理店であった明治屋は、1890(明治23)年に宣伝隊を使った広告を行っている。同年5月14日付『中外商業新報』によると、その様子は「其発売に係る麒麟ビールの披露として、さる十日は横浜市中を、又去る十二日は府下各町々を三四十人にて練廻りたるが、鳴物には銅鑼太鼓等々ありて、打扮(いでたち)には瓶形のものを体に嵌(は)め、洋刀を佩びて騎馬に乗るあり、旗押立るあり、一行殆ど是瓶の行列にして(以下略)」という大変派手なものだった。ビールびんなどの扮装をした30〜40人もの人々が太鼓や銅鑼をたたいて横浜と東京を練り歩いたため、人々は大いに驚き、宣伝としては大成功だった。

博覧会に出品することもビール会社にとってはよい宣伝となった。「キリンビール」を例にとれば、1890(明治23)年第3回内国勧業博覧会では樽型ティーハウスを出店し、さらに会場内に立て看板を出し、美人画のポスターを配った。このときの品評会で「キリンビール」は「恵比寿ビール」、「サッポロビール」、「浅田ビール」、「桜田ビール」とともにビールの最高位をとったため、その後の広告文では品質がよいことを強調し、ブランドイメージを確立していくことになる。

また、駅にもビール会社が大型看板を立てるようになった。新橋駅と横浜駅に食堂が開設され、「キリン生ビール」の販売が始まる。それと前後して、両駅に「キリンビール」の大電飾看板が出現した。

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