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テーマ別解説

ビール広告の歴史

(1)新聞広告で通信販売も
江戸時代から看板、引札(ちらし)、文芸作品や双六に店の名や商品名を盛り込むなど、さまざまな形の広告が存在したが、明治に入ると交通、マスメディアの発展とともに広告の種類もより豊富になっていった。その中でビール会社は新しい広告手法を取り入れ、ビール愛好者を増やし、商品のイメージづくりをしてきた。

日本のビール広告は、幕末に発行された英字新聞に外国の輸入業者が掲載した輸入ビールの広告に始まる。1863(文久3)年に日本で初めて刊行された英語の日刊紙『ザ・デイリー・ジャパン・ヘラルド』には各業者が広告スペースに自社で扱う商品を列記していて、その中に「Beer」、「Ale」の文字がしばしば見られる。特に人気ブランドのバス社、オールソップ社はブランド名で書かれていることが多かった。

明治に入ると国内のビール醸造所や、それを取り扱う代理店が新聞に広告を出した。より広範な人々に名前を知ってもらいたいと願う業者には、新聞というマスメディアは魅力的な存在だったであろう。札幌でビールづくりをしていた開拓使勧業課も、1877(明治10)年9月、「札幌製麦酒左ノ定価ヲ以テ芝山内開拓使出張所仮博物場ニ於テ払下候条此段広告候也」と東京の新聞に広告を出した。しかも、当時発行部数の多かった新聞(『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』『読売新聞』)を選んでおり、数の効果を意識していたことが分かる。 明治20年代になると一般の酒販店でもビールを取り扱うようになったが、全ての店舗で入手できるわけではなかった。そこで新聞広告を用い、今でいう通信販売を行うビール会社もあった。1886(明治19)年3月15日付『時事新報』に掲載の「浅田ビール」の広告では、「府内に限り郵便にて御注文次第壱瓶なりとも早速御届ケ申上候」と、たった1本の注文でも配達することを伝えている。配達用の自動車もない時代に、宅配でビールの味を知ってもらおうという作戦を取ったのである。

また、明治20年代には新聞広告にイラストを添えることが一般的になってきた。1890(明治23)年6月13日付『東京日日新聞』に載った「キリンビール」の広告では、「演題 キリンビール」という看板の下で、ビール樽を演台代わりに、右手にビールびんを高々と掲げて弁をふるう男が描かれている。長い宣伝文も読者に「諸君」と呼びかけるなど、イラストに合わせた演説調である。自由民権運動以降、政治演説を見聞きする人が増えたため、こんなユーモアも大衆に受け入れられたのだった。また、同年7月16日付『時事新報』には「浅田ビール」の第3回内国勧業博覧会における一等受賞(実際は三等有功賞牌)を知らせるイラスト付き広告が掲載されている。手書き文字に、商標である鷹のイラストを大胆に組み合わせた図柄は、新聞広告にインパクトあるデザインが求められるようになったことを物語る。

大正末からは大衆雑誌のブームが起こり、雑誌広告も重要な広告手段となる。1925(大正14)年、「日本一安い!日本一売れる大雑誌!」のキャッチフレーズとともに登場した『キング』(講談社)は広告料金のおかげで制作原価を割った定価(1冊50銭)を実現した。その安さが大いに支持され、昭和初期の発行部数は150万部を突破した。主なスポンサーは化粧品、薬品、食料品だったが、ビール会社も全国に名前を浸透させるためにこの雑誌に広告を出した。
「キリンビール」広告

「キリンビール」広告(『東京日日新聞』1890年6月13日付)


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