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テーマ別解説

日本人のビールの好み

(3)国産もイギリス風からドイツ風に
1885(明治18)年、居留外国人がスプリングバレー・ブルワリーの土地と建物を買い取り、新しい醸造会社ジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立した。ジャパン・ブルワリーは、醸造技術者をドイツ人にし、機械設備、麦芽やホップなどの原料をドイツ商館を通じてドイツから輸入し、本格的なドイツ風ビールの醸造を目指した。彼らは日本人の好みが完全にドイツビールに移ることを予測していたのだった。こうして、彼らによって設立された会社、ジャパン・ブルワリーは1888(明治21)年にドイツ風のラガービール、「キリンビール」を発売し、たちまち好評を得た。

1890(明治23)年に発売された日本麦酒醸造会社の「恵比寿ビール」、1892(明治25)年に発売された大阪麦酒会社の「アサヒビール」も、設備などをドイツから輸入してつくられたドイツ風のラガービールである。さらに官営の開拓使麦酒醸造所を引き継いだ札幌麦酒会社の「札幌ビール」、醸造の盛んな愛知県半田につくられた丸三麦酒醸造所の「丸三ビール」(後の「カブトビール」)など、全国的にドイツ風ビールが出回るようになったことから、「ストックビール」の輸入量は徐々に減少した。

国内のビール醸造会社が増加し、国内会社同士の競争も激しくなった1890(明治23)年、東京の上野公園で第3回内国勧業博覧会が行われた。このときのビールの出品は26道府県で83点にも及んだ。その中で評価が高かったのは「キリンビール」と「恵比寿ビール」だった。以下は審査報告からの抜粋である。
「麦酒ハ其ノ出品殆ト一百ニ垂ントスト雖モ精良ナルモノハ甚少ナク概ネ苦味ニ過キ或ハ酸味ヲ帯ヒ或ハ粘着過度ニシテ泡沫容易ニ消エス其甚キモノニ至テハ脱栓ト共ニ液ヲ発射スルコト数尺ニ及ヘルモノアリ然レトモ亦其甚優等ナルモノナキニアラス乃麒麟麦酒、恵比斯(原文ママ)麦酒ノ如キ最良好トス」

あまり品質のよくないビールが多い中で、「キリンビール」と「恵比寿ビール」の品質が目立ってよかったことがうかがえる。一方、イギリス風のビールをつくってきた「桜田ビール」「浅田ビール」とともに、キリンや恵比寿と同じ「有功三等賞牌」だったが、そこまでの賞賛は得ることができなかった。

ドイツ風の国産ビールが市場を拡大する中で、「桜田ビール」は売上げを落とし経営不振に陥る。そこで大資本のビール会社に対抗すべく、1893(明治26)年に株式会社組織に変更し、さらに1896(明治29)年には東京麦酒株式会社と改組改称して新しい技術・設備を導入、1898(明治31)年にドイツ風ビール「東京ビール」を発売した。

このように、ドイツ風ビールは、主に大資本のビール会社が醸造していた。本格的なドイツ風ラガービールの醸造に必要な外国製の製氷機を導入することは中小の個人資本の会社には難しかったのである。さらに1901(明治34)年発布の「麦酒税法」が中小会社の経営を圧迫し、全国に多数あったビール醸造会社のほとんどは明治末までに姿を消した。ジャパン・ブルワリー・カンパニーも外国人経営企業としての限界から、その事業を引き継いで、日本人経営の新会社、麒麟麦酒株式会社が創立された。
発売時の「キリンビール」ラベル

発売時の「キリンビール」ラベル

新聞に掲載された「キリンビール」の発売広告

新聞に掲載された「キリンビール」の発売広告(『時事新報』1888年5月28日付)。


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