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紅茶の話

第6話 日本の紅茶史

3 新時代に向けた進化
優雅さ、豊かさ、ハイカラの象徴になった「紅茶」
開港直後、横浜や神戸の貿易港には英米などの商館が多く軒を連ね、多田元吉らが苦労して生産した国産紅茶が輸出されていきました。日本の紅茶はやがて、インドやセイロンと肩を並べるほどに質、量ともに高まりました。しかし、日本国内では、飲みなれた緑茶への志向が強く、高価な贅沢品の紅茶を飲用するという習慣はしばらく根付きませんでした。紅茶は、1883年(明治16)年に落成された鹿鳴館のような場で飲まれるハイカラで特別な飲み物であったのです。

1886(明治19)年に、銀座で三重県産の紅茶が初めて一般発売されました。その年、日本橋にコーヒーハウス「洗愁亭」、その2年後には上野の下谷黒門町に本格的な珈琲館として「可否茶館」が相次いで開店しました。米1升が5銭の時代、コーヒー1杯1銭5厘、ミルクティーは2銭と相当に高価なもので、いずれも最初は大盛況とはいきませんでした。広く国内で紅茶が飲まれるようになるのは、夏目漱石や永井荷風、宮沢賢治らの日本文学の中に登場しはじめてから以降のことです。それでも、文学の中に登場する紅茶好きの人々は、いずれもハイカラ好みの上流階級というのが共通点で、紅茶が依然として高級品であるという印象は変わりませんでした。『食の文化誌 知っ得』によれば、紅茶は、当時の文学の中で「優雅さ、豊かさ、ハイカラの記号として機能していた」、また、「戦後生活形態の洋風化とともに紅茶は一般に普及した。が、高級で優雅なイメージは今もなお残っている」と分析しています。


コラム


当時の先端アート『横浜写真』で外国人に人気のあった茶の交易風景

茶の交易風景

開国によって西洋からもたらされた新しい文化「写真」。来日した旅行者に一番人気の土産品は『横浜写真』と呼ばれた写真やアルバムでした。景勝地とならび、生糸や茶の生産に関する写真も高い人気があり、多田元吉の遺品の中にも、そんな1枚が残されています。横浜や神戸の他、上海、漢口、廈門、台北などの主要な茶の交易地に支社を置いたGeo.H.Macy社の神戸取引所の様子を写したものです。アメリカには、このGeo.H.Macy社の各国の取引所と従業員を収めた美麗な装丁のアルバムが現存しますが、中には"Afternoon tea in Japan"と題した一枚があります。和装の女性が火鉢を囲んで喫茶を楽しむ様子は、欧米から見た日本の茶が、当時の異国趣味の象徴であったことがうかがえます。
多田元吉の遺品
日本画もまた外国人にとって興味の対象だった。長期の輸送に耐えられるよう、梱包が壷から茶箱になると、花鳥図、風俗浮世絵をあしらった彩りも鮮やかな「茶箱絵」が貼られて出荷されていた。
(上記、すべて多田元吉の遺品より。取材協力・所蔵:多田元吉翁顕彰会)


新しい時代にふさわしい茶系飲料への進化
日本の紅茶産業は、品質・価格面での問題や世界の茶市場を含む活発な情勢変化が影響し、明治後期になっても紅茶産業の開拓期から抜け出せずにいました。しかし、三井合名会社が大規模な製茶事業に乗り出し、茶園を開設。紅茶に着目すると、製茶技師を紅茶生産の先進地へ派遣、品質の向上に着手しました。試行錯誤の末、1927(昭和2)年、缶入りのリーフ紅茶が発売されます。それが、日本初の国産ブランド紅茶「三井紅茶」(後の日東紅茶)です。これを機に、その後、日本の紅茶文化が花開きます。
国産初の紅茶ブランド、三井紅茶(後の日東紅茶)

国産初の紅茶ブランド、三井紅茶(後の日東紅茶)。この後、ティーバッグ、ティーミックスが開発される。
写真提供:三井農林株式会社


嘉福烏龍茶

ペットボトル烏龍茶「嘉福烏龍茶」<1986(昭和61)年発売>


そして、本格的な紅茶が手軽に淹れられるティーバッグが1960年代に発売されると、量産による低価格化ということもあり、日本の一般家庭に紅茶が普及していきます。 1971年(昭和46)年に、紅茶輸入が自由化されると、日本での輸出用の紅茶生産は殆ど停止してしまいます。日本でかつて紅茶が作られていたということは次第に忘れ去れていく一方で、国内では、粉末のインスタント紅茶(ティーミックス)を開発するなど、さらに紅茶を身近に飲む工夫が生み出されていきます。

当時の日本の清涼飲料市場には、どのような飲み物があったのでしょうか。

戦前からあった「キリンレモン」のような炭酸飲料や「キリンオレンジ」のような果汁入り飲料に加えて、コーヒー飲料や茶飲料も登場するようになります。容器もびんから缶へと人気が移り、昭和50年代に入ってホット&コールド自動販売機が普及するようになると、さらに多種多様な飲料が求められるようになっていったのです。

清涼飲料化された茶飲料には、まず紅茶(レモンティー)が登場します。そして烏龍茶、ついで緑茶が発売されました。いずれも、初登場は缶入りの商品でした。1982年(昭和57)年には日本でもペットボトル容器の使用が許可されるようになり、炭酸飲料や果汁飲料には採用されますが、茶飲料には採用されませんでした。これは茶飲料が、高温での殺菌を必要とするからでした。茶飲料をペットボトル容器につめるには、製造技術的に乗り越えねばならない問題点が多かったのです。そのような中で、キリンビール社ではペットボトル入りウーロン茶の開発に成功。1986(昭和61)年4月「嘉福烏龍茶」を発売します。キリンの開発チームは茶葉プラントの設計、抽出技術の検討、微生物管理、充填技術の開発など、様々な課題を克服して、ペットボトル入りウーロン茶の商品化に成功したのです。そして、このペットボトル入りウーロン茶の登場が、さらに製造が困難とされていた紅茶飲料のペットボトル化への挑戦につながっていくのでした。


<参考文献>
磯淵猛著『一杯の紅茶の世界史』(文藝春秋)
磯淵猛著『紅茶事典』(新星出版社)
山下恒夫著『大国屋光太夫〜帝政ロシア漂流の物語〜』(岩波新書)
亀井高孝校訂『北槎聞略(桂川杜甫著)』(岩波文庫)
川口國昭著『茶業開化〜明治発達史と多田元吉』(山童社)
川口國昭著「日本茶業の礎を築いた多田元吉」(『茶道楽 第14号』より)
松崎芳郎著『茶の世界史』(八坂書房)
大石貞男著『日本茶業発達史』(農文協)
小沢健史著『幕末・明治の写真』(ちくま学芸文庫)
海老原由香(紅茶の項)『「食」の文化誌 知っ得』(學燈社)
一茶菴家元オフィシャルサイト「一茶菴佃一可の世界」
(社)全国清涼飲料工業会オフィシャルサイト
<取材協力・資料提供>
三井農林株式会社
鈴鹿市文化振興部文化課(大黒屋光太夫記念館)
多田元吉翁顕彰会

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