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紅茶の話

第3話 茶の歴史

2 独自の楽しみ方を発展させた「日本の茶」
身分ある人たちだけが飲むことを許された茶〜平安時代〜
「茶」が日本に入ってきたのは、中国からの渡来人や交易、日本から中国へ派遣した使節を通じてもたらされたものと推察されています。時期についての確証はありませんが、805(延暦24)〜806(大同元年)年に遣唐使として唐に留学した最澄や空海が、茶と、チャの種(実と思われる)を持ち帰ったことが知られています。この時もたらされたのは、現在のような形状の茶ではなく、円盤型の固形茶(餅茶)でした。この時代、茶は誰もが飲めるというものではありませんでした。貴族や僧侶など身分ある人々だけが薬や儀式として飲むことを許された珍しい飲みものであって、中国文化の模倣に過ぎなかったのです。この時期、喫茶の習慣は一般社会へ定着には至りませんでした。
現在も飲まれている固形茶(餅茶)

現在も飲まれている固形茶(餅茶)

茶の栽培が始まり、喫茶の習慣が根付く〜鎌倉時代〜
日本各地で茶が栽培されるようになり、喫茶が日常的なものとなる契機となったのは、しばらく途絶えていた中国への留学が復活し、僧・栄西(えいさい 1141〜1215)が茶を携え帰国したことでした。栄西は、持ち帰ったチャの種を筑前(佐賀県)の背振山(せふりさん)に蒔き、栽培します。その後、栄西からチャの種を譲り受けた弟子の明恵(みょうえ1173〜1232)が京都・栂尾山(とがのおさん)高山寺で栽培を開始、これが宇治茶の基礎になったと言われています。やがて宇治から伊勢、駿河、武蔵川越などへも移植が進められましたが、今ではいずれもが日本有数の茶の産地となっています。これらのことから、明恵は全国各地に本格的な茶の栽培を広め、根付かせた人として称されています。

一方、栄西は、時の将軍・源実朝の深酒を諌めるため、茶の健康価値や効能などをまとめた「喫茶養生記」とともに茶を献上しました。以後、幕府の庇護のもと茶は栽培が推奨され、広く武士階級へも浸透していきました。

この頃になると、茶は餅茶から点茶(抹茶)へと形状を変えています。

やがて流行する茶の湯の隆盛と共に茶は商人階級へも広まり、江戸時代に入るとさらに簡易に飲める工夫がなされ、町人の間にも喫茶の習慣が広まりました。
『煎茶要覧(東園編)』

『煎茶要覧(東園編)』 1851年
栂尾(とがのお)山や宇治の茶園などの風景、陸羽、煎茶道具などが図で紹介されています。 ※1

『教え草(第一五 製茶一覧)』

『教え草(第一五 製茶一覧)』 1872〜76年
お茶ができるまでを子供向けにわかりやすく描いた明治時代の美しい資料です。 ※2

(※1、2共に資料提供:高知県立牧野植物園)


文化へと昇華した日本の茶「茶の湯」〜安土・桃山時代〜
このように日本は、茶を一般の人でも手軽に美味しく飲めるものへと改良を進める一方、世界でも類を見ない総合的な芸能として完成していく独自の文化「茶の湯」を築いていきました。

鎌倉時代から戦国時代を経て安土桃山時代になると、茶の湯文化が本格的に開花します。茶の湯とは、茶会に招いた客へのもてなしに関わるものすべてを指します。客を迎える茶室の在り方、しつらえ、美術、生け花、道具、作法など、もてなしの精神をすべて網羅した総合芸能ともいえるものです。

記録によると、1571年頃から織田信長が茶会を開き始め、多くの武将を招いて、作法や礼節を教えたといわれます。のちに千利休(せんのりきゅう 1522〜1599)として有名になる千宋易も信長の茶会の中心人物でした。やがて豊臣秀吉に仕えるようになった利休は、それまでの作法をまとめ、「茶道」の基礎を確立しました。利休の好みの茶の湯は華美を好まず、しつらえなどに自然を取り込み、必要最低限にまでそぎおとしていくもので、のちに後継者たちが「わび茶」として完成させました。

ヨーロッパに茶が紹介されはじめたのもこの頃です。日本を訪れたポルトガルやイタリアの宣教師たちは積極的に茶会に参加し、この模様を多く記録に残し本国に書き送りました。外国人たちが知った茶は、単に喉の渇きを癒すためのものではなく、人と人のこころをひとつにする媒介となるもの、飲む場所、道具、作法など、さまざまな文化をつなぐ高貴なセレモニーとして映ったようです。

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