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酒・飲料の歴史 日本のビールの歴史 酒・飲料の歴史 日本のビールの歴史

日本のビールの歴史年表

明治19年〜明治45年(1886〜1912)

解説
  • 1886年(明治19年)
  • ドイツ産ビールの輸入商が「各地方西洋酒店及薬舗に於て御購求奉願上候」と、『時事新報』に広告を出す。[6月]
  • 大倉組商会に札幌麦酒醸造場(1882年開拓使麦酒醸造所から札幌麦酒醸造所に、1884年札幌麦酒醸造場に改称)の払下げが通達される。[11月30日]
  • 東京・浅草の洋酒商がドイツ産「ストックビール」の偽造品を販売して逮捕される。
  • 1887年(明治20年)
  • 伊藤博文総理、自邸で夜会を開き、洋食やビールをふるまう。[1月]
  • 日本橋、京橋あたりの洋酒一杯売店は夜半まで納涼客でにぎわう。[7月]
  • 日本麦酒醸造会社設立。社長は鎌田増蔵。[9月6日]
  • 札幌麦酒会社設立。発起人の一人は渋沢栄一。[12月28日]
  • 横浜の秋元巳之助が、「金線サイダー」を発売。
  • 新渡戸稲造、アメリカからドイツへ渡り、ボン大学に入学。ドイツ滞在中に堀宗一とビール談義をする(『新渡戸稲造傳』)。
  • 当時の世相を風刺した川上音二郎の『オッペケペ節』が一世を風靡する。
  • この年、東京で西洋料理店が相次いで開店する。
  • この頃、国産ビール会社の数が、ピークに達する
  • 1888年(明治21年)
  • 横浜山手のジャパン・ブルワリー・カンパニーで本格的ドイツ風ビール「キリンビール」が製造され、磯野計が創立した明治屋によって全国に売り出された。商標を「麒麟」にしようと提案したのは、荘田平五郎。[5月]
  • 東京・上野の黒門町にコーヒー店「可否茶館」開業。洋酒やビールも提供されていた。
  • 庶民相手の飲食店(そば・汁粉・天ぷら・牛鍋・寿司・うなぎなど)が目立って増える。
  • 1889年(明治22年)
  • 大日本帝国憲法発布。[2月11日]
  • ビールを含む洋酒の一杯売が人気。「暖和の季節に向へば焼芋屋もかまどを移して…一杯売の洋酒屋に転業の準備」(『時事新報』)。[4月]
  • 愛知県半田の丸三麦酒醸造所が、「丸三ビール」を発売。醸造者は盛田善平。[5月]
  • 「キリンビール」のラベルのデザイン変更。現在の「キリンラガービール」ラベルの原型となる。[6月]
  • 大阪・堺の酒造家・鳥井駒吉や実業家・松本重太郎らが加わり大阪麦酒会社を設立。初代社長は鳥井駒吉。[11月]
  • 停車場の待合室に広告が許され、新橋と上野に「キリンビール」のポスターが貼られた。
  • 「キリンビール」の人気を伝える記事が『時事新報』に掲載される。
  • 1891年(明治24年)
  • 盆の贈答品にビールが持てはやされだし、素麺の売上げが落ちる。
  • この頃、小資本の麦酒醸造所が競争に破れ、相次いで閉鎖に追い込まれる。
  • 明治屋が、花見でにぎわう東京・隅田川河畔で仮装行列を繰り広げ「キリンビール」をPR。
  • 1892年(明治25年)
  • 大阪・吹田村の大阪麦酒会社が、「アサヒビール」を発売。ドイツで日本人初のブラウマイスターとなった生田秀が醸造したもの。[5月]
  • 東京、横浜市中のビールの需要は概ね国産品となり、輸入物は大半が地方で売られている。
  • 南方熊楠、留学のためロンドンへ。毎晩のようにビールをたしなむ。
  • 1893年(明治26年)
  • 横山助次郎が醸造した「日の出ビール」「明治ビール」「千歳ビール」が発売される。
  • 風月堂が女性客を対象に麻布に喫茶室「夏見世」をオープン。メニューはアイスクリームやコーヒーなど。
  • 1894年(明治27年)
  • 日清戦争起こる(〜1895年)。[8月]
  • 石川県宝立町では出征軍人の送別会で大いにビールが飲まれた。
  • 『東京諸営業員録』に西洋料理店が多数紹介される。
  • 1895年(明治28年)
  • 風月堂が鮭肉入りビスケットを発売し、淡白な塩味でビールの肴に最適と広告。
  • 日本麦酒がビールをぬる燗につけることを勧める広告を出す。
  • この頃、大阪で「ビール会」が開かれる。
  • 東京・銀座に洋食屋「煉瓦亭」が開店。とんかつのルーツとなった「カツレツ」を1899(明治32)年に考案。
  • 1896年(明治29年)
  • 酒造税法公布。清酒に造石税が課せられるようになる。造石税は年間に製造した酒の本数にかかる税金。[3月28日]
  • 1897年(明治30年)
  • 西洋料理の「東洋軒」が三田四国町に開店。300坪からなる木造洋館で、玉突場(ビリヤード場)を備えていた。
  • 私鉄山陽鉄道に初の食堂車ができたといわれる。
  • 鳥取県宇倍野村では連隊ができてビールが飲まれ始めた。
  • 1898年(明治31年)
  • 「桜田ビール」の金沢三右衛門の弟である金沢正次が、「函館麦酒」を設立する。
  • 小村寿太郎、駐米公使時代にビールを毎晩たしなむ。
  • 乃木希典が、海軍大将視察の際に歓迎の宴を開く。
  • 1899年(明治32年)
  • 東京の汐留川にかけられた新橋の開通式当日、地元の洋酒店主安藤又吉が3,000本のビールを通行人にふるまう。[5月]
  • 大阪でビール会流行。「納涼客の足をひいて年々繁盛を増す中之島ビール会に倣ひ、南地に二箇所まで同日に開業…景気を競ふ」(『大阪朝日新聞』7月31日)。
  • 日本麦酒が日本で初めてのビアホール「恵比寿ビヤホール」を新橋駅近くに開店、1日平均800人内外の大繁盛となる。以後次々と同じような店ができる。[8月4日]
  • 新橋と横浜の駅に食堂が開設され、「キリン生ビール」の販売が始まる。それと前後して両駅に「キリンビール」の大電飾看板が出現。
  • 1900年(明治33年)
  • 皇太子殿下御成婚の盛儀を見るために集まる人々を目当てに、東京麦酒(旧・桜田麦酒)が赤坂警察署隣の空き地に徹夜でビアホールをつくる。
  • 内務省が、日本初の「清涼飲料水営業取締規則」を発令。ラムネにかぎって7月1日より施行。[6月]
  • 東京麦酒から、日本初の王冠栓付きビールが売り出される。それまではコルク栓だった。[7月]
  • 地方でもビールが飲まれ始める。福岡県三井町では全戸数600のうち40戸で飲まれた。
  • 1901年(明治34年)
  • 園遊会にビール店を設置するのが流行。[4月]
  • 東京・上野、向島の花見でキリン、カブト、ヱビス、東京、札幌各ビール会社のビアホールが競い合う。[4月]
  • 讃岐鉄道では「列車の一部に喫茶室を設け…乗客に必要なる煙草、ビール、正宗、パン、菓子、鉄道餅等を販売し好評」(『大阪朝日新聞』4月8日)。
  • 麦酒税法公布。ビールに初めて税金が課される(1石あたり7円の造石税)。[10月1日]
  • 東海道線で官設食堂車の営業が開始される。ただし、利用できるのは1等、2等車の乗客だけだった。[12月15日]
  • 熊谷で1、2片の氷を浮かせたビールを飲むのが流行。
  • 秋山好古、清国駐屯軍司令官時代に、友人のために日本から清国へビールを運ぶ(『秋山好古大将伝記』)。
  • 1902年(明治35年)
  • 正岡子規、『病牀六尺』でビアホールについて記述。[5月26日]
  • 1903年(明治36年)
  • 第5回内国勧業博覧会が大阪で開かれ、各ビール会社が趣向をこらしたビアホールを出店。「我邦のラガア麦酒は色沢鮮麗芳香優美内外人の賞賛を博するに足れり」(『審査報告』)。[3月]
  • 東京の万世橋開通式典で参列者へ引き出物としてビール1本が配られた。[3月]
  • 日本麦酒が東京・目黒の会社構内にビアホールを設け、ビリヤードやローンテニスなどを設けた。
  • 「盆の刺鯖、正月の鏡餅」という言葉にあるように、盆の贈り物によく用いられた刺鯖に代わって、ビール・ブドウ酒・コーヒーなどが登場したことを「これも一個の風俗の変遷であらう」と記している(『大阪朝日新聞』9月5日)。
  • 1905年(明治38年)
  • 夏目漱石、雑誌『ホトトギス』にデビュー作『吾輩は猫である』の連載を開始。
  • 『月刊食道楽』に西洋食料品、西洋台所器具の広告が相次いで登場。
  • 1906年(明治39年)
  • 東京市主催の凱旋軍第3回歓迎会で、キリンやヱビスのビール店がたちまち満員になる(『風俗画報』)。[2月]
  • 札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒が合併して、大日本麦酒株式会社が設立。初代社長に馬越恭平、常務取締役に植村澄三郎が就任する。[3月26日]
  • 1907年(明治40年)
  • 大日本麦酒が東京麦酒新株式会社を買収。[2月2日]
  • ザ・ジャパン・ブルワリー・カンパニーの事業を引き継ぎ、麒麟麦酒株式会社創立(初代専務取締役・米井源治郎)。[2月23日]
  • 上野で開かれた東京勧業博覧会で、ビール店が大いににぎわった。[3月]
  • 東京・丸ノ内赤レンガ三菱8号館に西洋料理屋「中央亭」が開店。
  • 明治屋がダイヤモンド印のシャンパン、オレンジ、レモネード、ジンジャーエールの4種の清涼飲料水を売り出す。
  • 1908年(明治41年)
  • 永井荷風、『あめりか物語』を発表。
  • 大阪・川口(旧居留地)に「カフェー・キサラギ」が開店。大阪におけるカフェーの先駆け。
  • 金田一京助、友人の石川啄木の引越祝いにビールで乾杯する。
  • 1909年(明治42年)
  • 明治屋、ビールの滋養作用をうたった新聞広告を出す。「食ふべき麦酒」のキャッチフレーズが話題に。
  • 大日本麦酒がヱビス・サッポロの名を詠みこんだ俳句・狂歌・一口噺を懸賞募集。
  • 明治屋が、「キリンビール」の宣伝と配達を兼ねてイギリス製の自動車を購入。警視庁登録第1号のナンバープレートをつけ、「ナンバーワン自動車」と呼ばれ話題になった。
  • 石川啄木、「食ふべき麦酒」のビール広告から触発された評論「食ふべき詩」を発表。
  • 田山花袋、『田舎教師』を発表。埼玉県羽生地方の農村に赴任した新米教師がビールで歓待を受けたり、氷をビールに入れて飲む光景が描写される。
  • 1910年(明治43年)
  • 大日本麦酒が「ミュンヘンビール」発売。「純ドイツ風ミュンヘンビールは、身体の肥満を欲する人、生来貧血の人、病後回復期に在る人、衰弱疲労せる人に対して医師の推薦する衛生的飲料なり」とPR。
  • 東京・浅草公園に「来々軒」が開店。
  • 上野公園の掛茶屋がこの年の花見から価格を決める。ビールは大びん30銭、小びん20銭。
  • 1911年(明治44年)
  • 洋画家の松山省三が京橋日吉町に欧風カフェー「カフェー・プランタン」開店。「女給」という言葉は同店から生まれた。[3月]
  • 築地精養軒が銀座尾張町の角に「カフェー・ライオン」を開店。1階酒場、2階食堂、3階余興場で、30余名の女給仕がそろいの姿で働いていた。[8月1日]
  • 明治屋『嗜好』(4巻7号)に「キリンビール、ボックエール、ピルスナビールの類は、山辺海到る処に商ふて居るから随所に之を求むるに事欠かない」と掲載される。

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