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酒・飲料の歴史 飲みものの歴史 酒・飲料の歴史 飲みものの歴史

酒と飲料の文化史

日本の文化に溶け込んだウイスキー

日本はウイスキー五大産地の一つ
ハードボイルド小説や映画などでは、劇中の人物がウイスキーを飲むシーンがしばしば登場する。その姿を見て、「カッコイイ」と憧れた人も多いのではないだろうか。

ウイスキーの語源は、ゲール語(ケルト語の一種)の「ウィシュケ・べァハ」、すなわち「生命の水」という意味であった。12〜13世紀ごろから、その原型となるものがつくられはじめたといわれている。当初は、穀類を発酵させて蒸留するのみだったため無色透明で、現在のような琥珀色はしていなかった。この深みのある色は木樽による貯蔵・熟成の結果。今のウイスキーに近づいたのは18世紀になってからのことであった。

さて、一口にウイスキーといっても種類がある。原料の種類によるものと、産地による分類が一般的だ。
原料では、大麦麦芽のみをつかったモルトウイスキー、トウモロコシを原料としたコーンウイスキー、ライ麦を主原料としたライウイスキー、トウモロコシ、ライ麦、小麦などを使用したグレーンウイスキーなどがある。

一方、産地による分類では、スコットランドでつくられるスコッチウイスキー、アイルランドでつくられるアイリッシュウイスキー、カナダのカナディアンウイスキー、アメリカのアメリカンウイスキー、そして日本のジャパニーズウイスキーがある。ちなみに、よく知られているバーボンウイスキーは、テネシーウイスキーとともにアメリカンウイスキーの一種とされる。その他、ドイツやインドなどでつくられるウイスキーもあるが、五大産地と呼ばれているこの5つに分類するのが通例とされる。

とはいえ、五大産地の一つとして日本が挙げられていることに意外な感じを持たれた方もいるのではないだろうか。西洋的な酒文化の象徴の一つともいえるウイスキーは、いまや日本の文化ともいえるものになっているのである。そこで、日本人とウイスキーの関わりについて、少しひも解いてみよう。

ペリーの開国交渉に使われたウイスキー
記録として、日本に初めてウイスキーがもたらされたのは1853(嘉永6)年6月23日のこと。ペリー提督が率いるアメリカ合衆国東インド艦隊によって沖縄に伝えられた。艦隊が那覇に寄港したとき、琉球王国では新しい三司官(宰相)が就任したところであった。そのため、艦隊司令長官のペリーは、新任の三司官である尚宏勲(シャン・ハン・ヒュン)を旗艦サスケハナ号の晩餐会に招待。その席で、スコットランド産とアメリカ産のウイスキーを饗したと『ペルリ提督日本遠征記』に記されている。

そして、その約2週間後、艦隊は日本本土へ向けて移動。浦賀沖に停泊していた7月12日に、浦賀奉行と称した同奉行所の与力・香山栄左衛門が乗船し、その歓待の中でウイスキーが出されたと同書にある。この香山が記録に残る、初めてウイスキーを飲んだ日本の武士といえるのかもしれない。その後、ウイスキーは徳川将軍への贈り物として樽単位で献上されている。

こうして日本に伝来したウイスキーではあるが、その後しばらくの間は、お世辞にも日本人社会で親しまれているとは言えない状況にあった。日本人への販売を目的とする輸入が始まったのは1871(明治4)年であるが、洋酒自体がまだまだ高価なこともあり、人々の間になかなか浸透しなかったからだ。 しかし、関東大震災のあった1923(大正12)年、京都でモルトウイスキー蒸留所の建設が始まり、わが国独自の本格的なウイスキーづくりが開始される。その6年後に初の国産ウイスキーが誕生した頃からは、少しずつ人々が興味を持つようになる。
ペリー提督率いる黒船の来航

ペリー提督率いる黒船の来航は、日本にウイスキーという新たな文化をつくる先駆けとなった
(「PERRY'S EXPEDITION TO JAPAN」Library of Congressより)

ウイスキー多様化の時代へ
とはいえ、ウイスキーが本格的に社会に浸透したのは第二次世界大戦後のこと。敗戦直後の一時期、国産ウイスキーは進駐軍の将校から人気を得て、品不足を起こすほどだったというが、一方で、当時の国民にとって、高価なウイスキーは高根の花。しかも手に入ったとしても、現在イメージするような芳醇なウイスキーではなく「三級ウイスキー」という代物であった。これは当時の酒税法によれば、アルコールに香料で味を付けただけのもの。つまり、ウイスキー原酒をまったく使用しない模造酒が、ウイスキーとして大手を振っていた時代だったのである。それが1949(昭和24)年になると、3%までの原酒入りも「三級ウイスキー」に区分されることになる。このたった3%の原酒を入れたウイスキーは、それでもやはり味が違ったのだろう。瞬く間に模造酒を駆逐し、数年後に巻き起こるウイスキーブームの下地をつくりあげる。

そして1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約により、日本が再び国際社会に復帰したころから様相が変わってくる。その翌年に酒税法が改正され、アルコールと原酒の含有割合によって区分されていたそれまでの一級、二級、三級の各等級が、それぞれ特級、一級、二級と改められて、これまでの三級ウイスキーが二級ウイスキーに「格上げ」となった。ここに至ると、ようやく国民の生活にも余裕ができはじめ、サラリーマンが仕事帰りに気軽に立ち寄れるバーが続々とつくられた。そこで高い人気を得たのがウイスキーを炭酸水で割ったハイボール。その最大の魅力は「安さ」であった。余裕ができはじめたといっても、ウイスキーはまだまだ高級酒。それをロックや水割りで飲むよりも、ソーダで割って安価に量を飲めたほうが嬉しかったのだろう。 さらに、1962(昭和37)年には再び酒税法が改正され、それまで「雑酒」の中に分類されていたウイスキーは、ウイスキー類として独立。消費量、消費額が公示されるようになる。そして1971(昭和46)年には、アメリカのバーボンウイスキー、フランスのコニャックに続いて、イギリスのスコッチウイスキーが輸入自由化。翌年には関税も引き下げられたことで、高級酒の扱いを受けていたウイスキーは手が届きやすくなり、輸入洋酒ブームが起こった。

この流れを受け、それまでウイスキーを醸造していなかった国内酒造会社等も、本格的に国産高級ウイスキーづくりに参入する。当時、特級ウイスキーは高価であったが、1976(昭和51)年には国産初のシングルモルトの商品が発売されるなど、国産の高級ウイスキーの消費もしだいに伸びていった。 日本のウイスキー業界全体も着実に成長を遂げ、技術的にも進歩し、世界5大ウイスキーのひとつとして独自の個性を確立するようになった。 その後、焼酎人気の隆盛により、一時期ウイスキーの消費量は低迷するが、着実に技術は磨かれ続け、世界に誇ることのできる数々の国産高級ウイスキーが誕生した。こうして西洋文化の象徴的存在であったウイスキーは、いまや日本の文化としても世界に胸を張れるようになったのである。
国産初のストレートモルトウイスキー「オーシャン<軽井沢>」

1976(昭和51)年に三楽オーシャン社(現・メルシャン)から発売された国産初のストレートモルトウイスキー「オーシャン<軽井沢>」。(当時はシングルではなくストレートモルトウイスキーと表現していた)長い年月をかけ、静かにはぐくまれたモルトウイスキーの中から選び抜かれた、いわば貴重品であった。


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