酒・飲料の歴史 飲みものの歴史 酒・飲料の歴史 飲みものの歴史

酒と飲料の文化史

昭和15年〜昭和23年(1940〜1948)

ビール「冬の時代」の到来
「麦酒」と書かれたラベル

配給開始後もビール各社はそれぞれの銘柄のラベルを貼ったビールを製造していたが、1943年、各社の商標は「麦酒」と書かれたラベルに統一された。

明治時代以降、ビールは、西洋料理店の登場や大手製造会社の設立により、日本人の食文化に少しずつ浸透していった。年間生産量も大正・昭和と伸び続け、1939(昭和14)年には約31万KLとなり、戦前期のピークを記録している。

やがて、日中戦争の戦況悪化とともに国内で物資が不足し始めると、衣類や食料など国民の生活にも大きな影響が生じる。ビールも例外ではなく、価格等統制令によって公定価格が定められ、酒税の増加や原料の不足もあって生産量は年々減少していった。

1940年代にはビールの配給が始まった。世帯ごとに毎月の配給数が決められ、東京では月2本のビールが割り当てられていたようだ。地域や時期によって多少の差はあるものの、どこも似たような状況であった。

あわせて高級料亭やカフェーといった飲食店の営業が制限されると、人々はビール会社直営のビアホールや公営の国民酒場などでビールを飲むようになった。ここでも、一人あたりの量が制限されていたという。これらのビアホールも次第に閉店に追いやられ、1943(昭和18)年には全国で50軒程度にまで減少していたという。

また、物資不足や買い占めの影響もあって、ビールや焼酎など酒類のヤミ取引が頻繁に行われるようになる。ヤミ市場に出回る品は、薄められていたりするものもあり、品質はあまり良くなかったようだ。ビール価格の高騰は終戦後まで続き、1947(昭和22)年の東京では、本来23円で販売されていた大びん一本が100円ほどで取引されていたという。

終戦後もしばらくは、国民向けにビールの配給が継続されていたが、進駐軍に優先的に配られたため、日本人の手元には一人あたり年間1〜2本ほどしか届かなかった。

こうしたビール受難の時期は、飲食店の営業やビールの自由販売が再開される1949(昭和24)年まで続く。

だが一方で、戦時中に家庭にビールが配給されたことによって、それまでビールを飲んだことがない人々がビールの味を知ることになった。その後1950年代以降になると、戦後復興と高度経済成長による生活水準の上昇などもあり、ビールは国民的飲料として急激に普及していくこととなる。
「国民酒場」

戦時中、東京では酒を飲める場所として「国民酒場」が開かれた。1944年の東京の国民酒場の数は126軒で、閉店された飲食店の数には到底至らなかった。(写真提供:朝日新聞社)

戦争が変えた「日本酒」のすがた
同じく戦中に転機を迎えた飲料として、日本酒が挙げられる。

米麹を用いた日本酒は、稲作文化が日本に渡来するとともに大陸から伝わったとされる。古くから日本でつくられていたのは濁り酒(どぶろく)であったが、江戸時代までには、今日の日本酒づくりの原型がほぼ確立され、透明な酒がつくられるようになった。

こうして日本に根付いた「日本酒」は、明治時代、大きな進化を遂げる。きっかけとなったのは、1907(明治40)年に行われた「第一回全国清酒品評会」だ。当時、全国には約8,000ともいわれる酒蔵があったが、そのなかから2,137点もの応募があったというから、この品評会に対する業界の期待の大きさがうかがわれる。品評会では、優等賞、一等賞、二等賞、三等賞といった賞が設けられたが、審査は大変厳しく、ここで賞を受けることは最高の栄誉であり、売れ行きに影響を与えたという。その後も定期的に開催されたことから、品評会は酒造業者が腕を競い合う場として定着し、日本酒の品質向上に大きく貢献した。ちなみに、昨今人気の「吟醸酒」も、実はこの品評会から生まれたものだという。

だが、この「黄金期」は長くは続かなかった。1937(昭和12)年に始まった日中戦争の影響で、翌1938(昭和13)年には、政府による日本酒の生産統制が実施され、その後、太平洋戦争の勃発により、全面的な統制が行われるようになる。そのとき生まれたのが、「第一次増産酒」「第二次増産酒」である。これは日本酒にアルコールを添加して量を増したうえ、そのままでは度数が高くて飲めないため、糖類を加えたものだ。第一次増産酒は満州で考案され、第二次増産酒は大戦中の物資不足から、いかに米を使わずに酒をつくるかの研究過程で生まれたものであった。これらの新たな日本酒について、当時の識者は「品質を下げる」と酷評したが、やはり庶民の日本酒への欲求は抑えられず、これらの日本酒が多く流通することになった。

さらに終戦後には、第二次増産酒よりも効率よく製造できる「三増酒」が登場。食糧難のなか、庶民は比較的身近に日本酒を飲めることとなるが、反面、戦時中から指摘されていた通り、日本酒の品質は低下し続けた。この三増酒は、通常の日本酒よりもはるかに少ない原料で日本酒がつくれるため低コストで済むメリットがあり、物資が豊かになった高度成長期にも根強く残った。結果、日本酒消費の長期低迷をもたらす原因ともなった。

だが、1980年代に起こった「純米酒ブーム」「吟醸酒ブーム」を皮切りに、各地の酒蔵が高品質の日本酒を醸造した。こうしたことから、日本酒は新たな食文化を生み出すことを期待されている。
第一回清酒品評会終了後に、醸造協会が作成した『第一回清酒品評会顛末』
第一回清酒品評会終了後に、醸造協会が作成した『第一回清酒品評会顛末』

第一回清酒品評会終了後に、醸造協会が作成した『第一回清酒品評会顛末』。準備、事務、審査、審査授与式概況、会計報告など、品評会の顛末報告書としてまとめられた。(国立国会図書館 所蔵)


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