酒・飲料の歴史 飲みものの歴史 酒・飲料の歴史 飲みものの歴史

酒と飲料の文化史

大正元年〜昭和14年(1912〜1939)

喫茶店とともに広まったコーヒーの味
日本人が日常的にコーヒーを飲むようになったのは、海外の食文化が珍重された明治時代になってからである。江戸時代、コーヒーは貿易港を通じて海外よりもたらされたが、文人大田南畝が「焦げくさくして味ふるに堪ず」(『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』1804年刊)と評したように、当初は茶文化に馴染みの深い日本人には受け入れられなかった。コーヒーの普及は、文明開化以降における喫茶店の誕生とともにあったのだ。

1886(明治19)年、東京の日本橋に喫茶店「洗愁亭」が開店したのをはじめ、明治時代の中頃から西洋食を楽しみながら人々が憩う喫茶店が登場した。1911(明治44)年には、東京で初めてカフェーの名を冠した「カフェー・プランタン」が開店。洋酒やコーヒーを売るこの高級西洋料理店は、ハイカラ好きの芸術家や一流の文化人が集う社交場となり、永井荷風や高村光太郎といった文士の面々も頻繁に訪れたという。

一般大衆にコーヒーの味を広めた店としては、同年開店した「カフェーパウリスタ」が知られる。ブラジルコーヒーの宣伝を目的として発足した同店は、サンパウロ州政府からコーヒーの供与を受けその普及に努めた。ドーナツ付きのコーヒー1杯をカフェー・プランタンの3分の1の値段である5銭で提供、学生や労働者でも気軽に楽しめたことから、店は常に若者達でにぎわった。

以降、大正、昭和と喫茶店の増大に伴いコーヒー人気はさらに高まりを見せる。コーヒー豆の輸入量も、1933(昭和8)年に4万695俵、翌年には4万8,706俵、1935(昭和10)年には5万7,211俵と年々増加を続け、コーヒーは日本人の食生活に浸透していった。

その後、第二次世界大戦が勃発すると、コーヒーは敵国の飲料として輸入が停止される。日本の食卓からしばらく姿を消したコーヒーだが、終戦後、輸入が再開されてからは、欠かせない飲料のひとつとして人々に愛飲された。
1911年にオープンした、カフェーパウリスタの銀座店

1911年にオープンした、カフェーパウリスタの銀座店。その後、全国に展開し、喫茶店時代の全盛を築く。(株式会社カフェーパウリスタ 提供)

新たな時代を迎える清涼飲料

明治時代から昭和初期にかけて、さまざまな清涼飲料が飲まれるようになる。その歴史は比較的新しく、一般的には、幕末の黒船来航の際に持ち込まれたレモネードが、日本人と清涼飲料の出会いといわれている。やがて長崎で日本人の手によって炭酸レモネードが製造・販売されると、明治時代には東京を中心に広く販売された。名称については、本来の「レモネード」の発音が変化し、「ラムネ」と呼ばれるようになったようだ。 ラムネは西洋料理店などで売られ、その爽快感のある新鮮な風味は大きなブームとなった。当初はコルク栓が使われていたラムネびんだが、明治20年代になると我々のよく知る玉栓のものが用いられるようになる。どちらも、開栓した際にはポーンと音がしたため、「ポン水」とも呼ばれていた。 その後、昭和初期にかけて多くの清涼飲料が登場し、急速に日本人の食生活に根付いていった。ラムネ以外の清涼飲料では、1884(明治17)年に三菱商会が天然鉱泉水「平野水」を、1899(明治32)年に秋元巳之助が「金線サイダー」を発売し、本格的に炭酸飲料が流通するようになった。1919(大正8)年には乳酸菌飲料の「カルピス」のほか、国内で初めてコーラ飲料が発売された。1926(大正15)年には清涼飲料税が新設され、製造認可制度が定められている。当時は、清涼飲料といっても、サイダーやラムネ等の炭酸飲料が全体の8割ほどを占めていた。 第二次世界大戦の激化に伴って生産量は一時減少するものの、終戦後、清涼飲料業界も復興する。果汁飲料等も登場し、清涼飲料は再びブームを迎えることとなった。
明治時代初期に発売された「手引きラムネ」のびん

明治時代初期に発売された「手引きラムネ」。少しいびつなびんの形が、びん自体が手づくりされていたことを物語る。また、びんの側面には、世界の平和を願い、握手する両手が図案化されており、現在も変わらず使われている。(有限会社古田勝吉商店 提供)


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