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酒・飲料の歴史 日本のビールの歴史 酒・飲料の歴史 日本のビールの歴史

コラム

米井源治郎(よねい げんじろう)1861-1919/岡山県出身

磯野計の後継者として明治屋と麒麟麦酒の発展に尽くす

米井源治郎

米井源治郎

ジャパン・ブルワリー・カンパニーが製造した「キリンビール」は1888(明治21)年、同社と販売の総代理店契約を結んだ「明治屋」から売り出された。しかし、明治屋の創業者であった磯野計は、それから10年とたたず、病で1897(明治30)年に亡くなってしまう。その跡を継いで、明治屋の2代目社長となったのが、磯野のまたいとこに当たる米井源治郎であった。

磯野は亡くなったとき39歳という若さで、残された一人娘の菊はまだ、かぞえで12歳であった。磯野の妻もすでに亡くなっていたため、慶應義塾を卒業後、明治屋に入社して磯野を助けていた米井が、菊の後見人となって明治屋の経営を継ぐことになったのである。

米井の社長就任後、ジャパン・ブルワリーの内部では、明治屋との契約を継続すべきかどうかについて意見が分かれた。もともとの契約は、磯野個人と交わされたものだったからである。しかし、最終的には三菱の幹部であった豊川良平らが保証人となることによって、契約は米井体制の明治屋にも引き継がれることになった。

この後、米井は「キリンビール」の販売拡張に尽力してジャパン・ブルワリーと明治屋相互の発展に貢献するとともに、1907(明治40)年にジャパン・ブルワリーの事業を引き継いで創立された新会社・麒麟麦酒株式会社の初代専務取締役(実務の最高責任者)も務めた。そのほか、磯野と共同で設立した輸出入業の磯野商会を1906年(明治39)年に米井商店(現・株式会社ヨネイ)と改めて社長に就任した。明治屋と麒麟麦酒の発展に尽くした米井は、1919(大正8)年、58歳で亡くなった。

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