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コラム

岩崎彌之助(いわさき やのすけ)1851-1908/高知県〈土佐藩〉出身
岩崎久彌(いわさき ひさや)1865-1955/高知県〈土佐藩〉出身

麒麟麦酒創設に尽力した三菱のオーナー
岩崎彌之助

岩崎彌之助(いわさき やのすけ)

岩崎彌之助

岩崎久彌(いわさき ひさや)

岩崎彌之助は、三菱の創業者・岩崎彌太郎の弟で、三菱の第2代社長である。土佐に生まれ、維新後に1年半の米国留学を経て、1873(明治6)年に三菱商会に入社し、1875(明治8)年に設立された郵船汽船三菱会社の副社長となった。1885(明治18)年、兄・彌太郎の死去に伴って第2代社長に就任、日本郵船が発足した後、社名を三菱社と改め、事業の多角化を進めた。

その彌之助は、1885(明治18)年に在留外国人が横浜山手にビール醸造会社ジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立した際に、株主の1人に名を連ねている。三菱の顧問を務めていたイギリス人貿易商のトーマス・ブレーク・グラバーの勧誘によるものであったといわれているが、設立当初の株主33名のうち、日本人は彌之助1人であった。

そして1894(明治27)年、三菱合資会社が開業したのを機に、彌之助は兄・彌太郎の長男、岩崎久彌に社長の座を譲った。「跡目は息子の久彌に」という兄の遺言に従ったものだった。このとき久彌は28歳。アメリカ留学から帰国し、叔父・彌之助のもとで副社長として2年の経験を積んでからの社長就任だった。

この14年後、1907(明治40)年に、ジャパン・ブルワリーの事業は、日本人経営の新会社「麒麟麦酒株式会社」に引き継がれることになる。三菱はこの新会社創立にも協力し、久彌は彌之助とともにその株主となった。創立時の株式5万株のうち、久彌は6,000株を、彌之助は4,000株を引き受けた。 彌之助は、三菱の社長を退いたのち日銀総裁を務め、1908(明治41)年に57歳で死去。一方、1916(大正5)年に彌之助の子・小彌太に社長の座を譲った久彌は、戦後の財閥解体政策によって全役職を引退し、千葉県富里市の末広農場で隠退生活を送り、1955(昭和30)年に90歳で亡くなった。

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