ヒストリークルーズ Vol.8 ジャパン・ブルワリー・カンパニー 「キリンビール」誕生までのShort story 「キリンビール」の初仕込みが行われたのは、今から130年前。今回のヒストリークルーズは、本格的ドイツ風ビールを日本に広めたいと志した外国人たちの物語です。 ヒストリークルーズ

Vol.8 ジャパン・ブルワリー・カンパニー

「キリンビール」誕生までのShort story

「キリンビール」の初仕込みが行われたのは、今から130年前。今回のヒストリークルーズは、本格的ドイツ風ビールを日本に広めたいと志した外国人たちの物語です。
1885(明治18)年
ジャパン・ブルワリー・カンパニーの設立
ジャパン・ブルワリー・カンパニー最初の重役会を前に配布された仮設立趣意書と議事録

ジャパン・ブルワリー・カンパニー最初の重役会を前に配布された仮設立趣意書と議事録


ドイツ人醸造技師。写真は3代目のアイヘルベルク

ドイツ人醸造技師。写真は3代目のアイヘルベルク


1885(明治18)年、横浜のとある事務所で会議が行われていました。

「日本人はいまや西洋のものである肉やパンを食べ始めている。食生活を劇的に変えつつあると思うな。」

会議に集まったのは、新しいビール会社・ジャパン・ブルワリー・カンパニー、後のキリンビールとなる会社をつくろうと集まった在留外国人たちです。

明治の日本、文明開化とともに、外国のビールが入ってきました。しかし、当時のビールはなんとビフテキよりも高く、誰もが気軽に楽しめるものではありませんでした。

「日本に本格的なビールを、広めよう!」

それが、ジャパン・ブルワリー社の設立発起人となった彼らの思いでした。

この当時の日本では、イギリスのエールと、ドイツのラガーが人気を二分していました。
設立メンバーの大半がイギリス人であった彼らの選択は─、、、、、、

「我々が愛してやまないエールよりも、日本人の好む味ラガーで勝負しよう。」

こうして本格的ラガービールの誕生を目指して、彼らの奮闘が始まりました。ラガーと言えばドイツ。熟練の醸造技師をドイツから呼び寄せ、製造設備も最新のものを導入しました。さらラガービールは低温での貯蔵が必要なため、当時発明されて間もない冷凍機を業界で初めて導入。ホップなどの原料もドイツやチェコなど本場から輸入しました。
すべては、本物のビールのおいしさを味わってもらうために─。

ジャパン・ブルワリー・カンパニー設立中心メンバー

ビール事業が将来有望であると見込んだ在留外国人たち。彼らは品質のよいビールをつくりたいという思いで会社を設立しました。彼ら自身は、ビール職人ではありませんでしたが、それぞれの得意分野を生かし協力して、本格的ドイツ風ビール「キリンビール」を誕生させたのです。

  • エドガー・アボット

    写真:Mike Galbraith 提供

    ◆Edgar Abbott(エドガー・アボット)

    故郷のイギリスでビール醸造会社を経営していた家の出身。Ship-broker(船舶仲立人)が本業ではあったが、数人の居留外国人と共にジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立。当時の横浜きってのアスリートだった。

    写真:Mike Galbraith 提供

  • ジェームズ・ドッズ

    ◆James Dodds(ジェームズ・ドッズ)

    元々はバターフィールド&スワイヤー商会の経営者。アボットのスポーツを通じた友人だった。ジャパン・ブルワリー・カンパニーの初代チェアマン(組織のトップ)を務めた。
  • ◆William Henry Talbot(ウィリアム・ヘンリー・タルボット)

    当時の横浜三大英字紙の一つ『ジャパン・ガゼット』のオーナーのひとり。この人物もイギリス人であり、広い人脈を生かし経営に参画した。
  • Thomas Blake Glover(トーマス・ブレーク・グラバー)

    幕末から明治にかけての日本の近代化に大きな影響をあたえた英国商人。グラバーの提案により、現在の「キリンラガービール」の原型となるラベルデザインが完成した。

関連情報

ジャパン・ブルワリー・カンパニー最初の重役会を前に配布された仮設立趣意書と議事録

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ドイツ人醸造技師。写真は3代目のアイヘルベルク

ドイツ人醸造技師。写真は3代目のアイヘルベルク


1888(明治21)年
「キリンビール」誕生
『時事新報』1888年5月28日付のキリンビール発売広告

『時事新報』1888年5月28日付のキリンビール発売広告


会社設立から2年半をかけ、1888(明冶21)年2月、ジャパン・ブルワリー社は、いよいよ第1回目の仕込にこぎつけました。そして3ヵ月後、初めてのビールが出来上がりました。そのビールは、「キリンビール」と名づけられました。

原材料はもちろんのこと、機械、設備やびんまでもドイツから輸入したもののみを使用するという方針は、その後も続き、横浜にあるドイツ商館のカール・ローデ商会を通じてわざわざ入手していました。こうした一切の妥協を許さない姿勢が、本場ドイツ風ビール「キリンビール」が人気となった理由でもありました。

“本当においしいビールを”という130年前からの思いは、ずっと変わらず今に引き継がれています。

関連情報

『時事新報』1888年5月28日付のキリンビール発売広告

『時事新報』1888年5月28日付のキリンビール発売広告


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