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過去の取り組み

第17回 栄西と茶 ~茶文化の形成に貢献した名僧

日本の茶祖・栄西

 中国より伝わった茶は、今では日本人の日常に欠くことのできない馴染み深い飲料である。現在のように嗜好品として親しまれる以前は、主に「薬湯」として飲用されていた。それがやがて、茶を伝えた禅僧たちによって喫茶自体が精神修養の一環とされ、茶道というかたちとなって今日まで継承されている。
 日本と茶の歴史を見ていく上で、常に語られるのが日本臨済宗の開祖・栄西(1141~1215)の存在である。宋に二度留学し禅を学んだ栄西は、禅の在り方を示した『興禅護国論』を執筆し、鎌倉幕府2代将軍・源頼家(1182~1204)や北条政子(1157~1225)ら鎌倉幕府からの篤い保護を受けた。鎌倉に寿福寺を、京都には禅・真言・天台の兼修道場である建仁寺を開き、禅のみならず仏教全般に身を捧げた。
 栄西は、二度目の留学の際に持ち帰った茶種の栽培を奨励し、抹茶の飲み方である「喫茶の法」を広めるなど日本における茶の普及に大きく貢献した。また、彼は日本初の茶の専門書『喫茶養生記』を著し、現代のような科学技術など無い時代に、茶の効能を詳細に人々に伝えていた。この書は長く日本茶道における経典とされたことから、栄西は日本の茶祖とも言われるようになった。

開山千光祖明庵 栄西禅師肖像(建仁寺 提供)

 茶がどのように日本の食文化と結びつき、定着していったのか。名僧の残した功績とともに見ていくこととしよう。

茶の効能に着目した栄西

 栄西は、1141(永治元)年に備中国(現在の岡山県)吉備津宮の社家・賀陽(かや)氏に生まれた。幼い頃より才覚に優れ、11歳で地元の安養寺の静心和尚に師事し13歳で比叡山延暦寺に登って修行を積む。その後、再び安養寺に戻り天台宗・密教を学んだ栄西は、大陸で禅宗を修得するため28歳で宋への渡航を果たした。その後、47歳で再び宋へ渡った栄西は、天台山万年寺へ詣でて禅宗の宗派の一つである臨済宗を学び、師の法を受け継ぐまでになった。
 こうした宋での修行生活で、栄西は茶の有用性を知ったのであろう。現在でも喫茶が盛んな中国では、唐代から宋代にかけて既に喫茶が習俗となっていた。8世紀の文筆家・陸羽が記した『茶経』には、固形茶を煎じて飲む団茶法が紹介されており、10世紀になると団茶を粉状に砕き湯を注いだ後に茶筅で練る「抹茶法」が発生するなど、時とともに喫茶のバリエーションが増えていく。
 禅宗寺院でも喫茶は修行に取り入れられており、禅院の規矩には喫茶に関する条項が見られる。現代のような科学的分析をせずとも、彼らは茶に含まれるカフェインによる覚醒作用や、タンニン等の効果を身体で感じ知っていたのであろう。現地でそうした茶の効能を体感した栄西は、日本でも同様に普及させることを考えたに違いない。その後、帰国した栄西は禅寺を開いて布教活動に専念するのだが、その際に経巻とともに宋から持ち帰ったのが、茶の種子、そして日本には伝わっていなかった「抹茶法」であった。

『喫茶養生記』(入間市博物館 提供)
本書には初治本と再治本があり、再治本は3年を経た1214(建保2)年に書写されたといわれる。下巻では、茶以外に桑の木についても記述があり、その効能が仙薬として紹介されている。

名著「喫茶養生記」を著す

 栄西が宋から持ち帰る以前より、茶の存在は国内で知られていた。
 日本における茶の記録は、天平年間(729~749年)に書かれた『奥義抄』等に見え、唐より茶の実を持ち帰った最澄(767~822)らによって栽培・普及が図られている。その後は遣唐使の停止等もあり、茶文化の流入は一時停滞するが、栄西が粉末にした茶を湯に溶いて飲む「抹茶法」を新たにもたらしたこともあって再び活発になる。
 栄西は持ち帰った茶の種子をまず江州(現在の滋賀県)坂本に植え、やがて肥前(現在の佐賀県と長崎県)の平戸や背振山でも栽培を行った。その種子の一部は親交のあった僧・明恵(1173~1232)に贈られ、彼によって栂尾や宇治といった地域に植えられた。こうして、現在まで続く茶の名産地のいくつかが形づくられていったのだ。
 鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に、茶に関する興味深い記述がある。1214(建保2)年、将軍・実朝が病気になった際、栄西は「良薬」として茶を勧め、併せて「茶徳を誉める書」を献上した。この時献上された書が『喫茶養生記』であり、栄西が宋で学んだ茶の知識や効能を集約した茶の専門書であった。「茶は養生の仙薬なり……」の一文で始まるこの書は、茶の栽培時期や加工法、茶の持つ効能について詳細に書かれた上巻と、病気の養生法について書かれた下巻の2巻で構成されており、茶の専門書であると同時に、優れた健康書でもあった。
 たちまち実朝の体調は回復し、これをきっかけとして茶の持つ効能が注目されるようになったという。当時、茶は大変に高価な物ではあったが、禅宗寺院や上流階級を中心に鎌倉時代を通じて全国に広まっていった。その背景には、「抹茶法」を伝え茶の栽培を奨励しただけでなく、日本初となる詳細な茶の専門書を著した栄西の功績があったのだ。

栄西以前にも、茶に関する記述は多く見ることができる。奈良東大寺の歴史を記した『東大寺要録』や源氏物語の注釈書である『花鳥余情』などの史料には、行基(668~749)、最澄(767~822)、空也(903~972)らと茶の関連が述べられており、いずれの時代でも茶の文化は僧を介して伝えられ、広まっていたことがうかがえる。

「薬湯」から庶民の嗜好品へ

 栄西以降、茶の文化は時代や地域等によって様々に形を変えながらも定着していったようだ。室町時代後期の宣教師ジョアン・ロドリゲス(1561~1634)が記した『日本教会史』には、当時の庶民は茶葉を煮沸した汁を飲んでいたとする記述がある。また、茶の味や風味だけでなく、茶そのものの色味を出して楽しめるように工夫をしていたとされ、この頃には嗜好品としての意味合いも強まってきていたと考えられる。
 現在のように、蒸してから充分に揉んだ茶葉を使った「煎茶」が広まったのは江戸時代中期以降で、手軽な喫茶法として定着していった。こうして江戸時代のうちに茶はすっかり日本の食文化として定着した。その後も国内の茶の生産は伸び続け、1859(安政6)年の横浜開港以降はわが国を代表する輸出商品となるに至った。その後、西洋からさまざまな飲料が流入したが、今でも茶は、日本の食卓に欠かせない飲料として親しまれている。

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