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日本のワインのパイオニアたち

日本のブドウ栽培のパイオニア、小澤善平が夢みたワイン醸造

横浜開港に着目した先見性
1858(安政5)年、長らく鎖国体制にあった日本と西洋諸国との間で通商条約が結ばれ、西洋諸国との本格的な貿易が始まった。翌1859(安政6)年に横浜港が開港すると、西洋の文化や品々がつぎつぎと流入し、ワインも日本人に少しずつ飲まれるようになった。ワインは、戦国武将などのごく一部の限られた人々が愛飲する酒ではなく、外国との商取引を窺う商人たちも口にする酒になったのである。商人のなかには、日本でのワイン醸造に大きな期待を寄せる人物もいた。

そうした人物の一人に小澤善平がいた。彼もまた横浜開港に大きな刺激を受け、ワイン醸造に期待を寄せた一人であった。『大日本洋酒缶詰沿革史』(朝比奈貞良編、1915年発行)の一節に、「(小澤)善平は、青年時代横浜生糸輸出商某方に被傭中、一日米国人某の宴席に連りて初めて葡萄酒を味ひ、将来必ず邦人の嗜好に適すべきを思ひ、其の原料の栽培并に(ならびに)製造方法を習得せんと欲し……」とある。幕末から明治期にかけ横浜貿易に携わった人々の中には、こうした形でワインを体験した者が多くいた。そのような状況を見て、彼はワインが日本中に広まることを予感したのかもしれない。
神名川横浜新開港図

神名川横浜新開港図(五雲亭貞秀画・1860年、横浜開港資料館所蔵)

生糸商から始まった波瀾万丈の人生
小澤善平

小澤善平(日本経済評論社刊『日本のワイン・誕生と揺籃時代』より)

小澤善平は1840(天保11)年、甲州勝沼の綿塚(現・山梨県甲州市勝沼町)に生まれた。横浜開港当時は甲州産の生糸を自ら担いで横浜まで出かけ、外国人相手に商売をしていた。その後、横浜に転居し、浜師(生糸を仕切る商人)として本格的に商売の手を広げていった。当時の生糸と蚕種は横浜貿易の花形であったが、この生糸景気に目をつけた幕府が取り締まりを強化し、これに抵抗した善平は投獄されてしまう。しかし彼は、仲買商が集めた生糸を持ってフランス・リヨンまで直貿易に出かけ、日本初の生糸の直貿易商人となった。だが、開港間もない当時の日本では、国禁を犯したとして幕府の役人から追われる身となってしまう。

日本での事業を断念した善平は、アメリカでの新事業の話を聞きつけ、1867(慶応3)年、妻子を伴ってアメリカ・カリフォルニア州ナパ郡に渡った。留学や視察などでアメリカに短期滞在する日本人がほとんどであった当時、彼は家族を伴い、半ば永住を決意して渡米した。ナパでは開拓に従事し、桑や茶を植えて養蚕や茶業を興そうとした。しかし、事業は失敗、娘とは死別し、妻とも離ればなれになってしまう。しかし彼は諦めず、日雇いの身として働く一方で、夜は植物学者レレ氏のもとで植物学と語学を学び、わずか5ヵ月でこれらを習得した。レレ氏からは「数年かかるものをよく早く覚えた」と賞賛されたという。続いて、フランス人スラム氏からブドウの品種や苗木栽培、ワインの醸造法を習得した。

「撰種園」での苗木販売から開始
時代はやがて明治に入り、日本には新政府が誕生した。諸外国との国交が重視される中、1871(明治4)年、特命全権大使の岩倉具視が率いる使節団一行がアメリカへ渡航した。この一行とサンフランシスコで会う機会を得た善平は、密航の旧罪を許され、帰国の決意を固めた。そして、アメリカで得た知識を日本の農政や開拓行政に生かすため、アメリカから新種の果菜を持ち帰ることとなった。

こうして1873(明治6)年、帰国を果たした善平は、翌1874(明治7)年、東京・高輪と谷中清水町(現・台東区池之端付近)に農園を開いた。これらの農園は、福澤諭吉らの支援を受け、総面積は2万坪にも及ぶものであった。しかし、アメリカ式の農園経営は失敗に終わった。そこで高輪の農園を手放し、谷中の農園を「撰種園」と命名して苗木販売へと方向を転じることとなった。

撰種園では舶来果樹全般のほか、アカシア、イブキ、ヒバなどの植木も取り扱っていたが、決して善平がワイン醸造を断念したわけではなかった。撰種園で最も力を入れていたのはブドウの苗木販売であった。彼は、ブドウを栽培してワインを醸造することで、日本酒の原料である米穀の代用を果たし、国益の一助となるという信念をもち、「葡萄酒ノ盛大ヲ漸次我日本全土ニ移サンコトヲ望ム」(『葡萄培養法摘要』)と決意していたのである。
小澤善平の著書『葡萄培養法摘要』

小澤善平の著書『葡萄培養法摘要』(1877年)の誌面挿絵(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」より)

妙義山麗に一大ブドウ園を開拓
善平は、自らのブドウに関する知識を著した、『葡萄培養法摘要』(1877年)、『葡萄培養法』上下(1879年)、『葡萄培養法続編』上下(1880年)を発表している。『葡萄培養法摘要』は日本人が書いた初めてのブドウ専門書である。これらに述べるところは、アンドリュー・フラー(Andrew S.Fuller)の著書『The Grape Culturist』に拠るところが多いが、栽培家としての自身の体験に裏づけされており、西洋ブドウの苗木の特徴を的確に捉え、栽培技術を詳細に分かりやすく翻訳した画期的な研究書である。当時のブドウ栽培技術に関する本の中では出色に値するとされている。

1881(明治14)年3月、第2回内国勧業博覧会が東京・上野公園で開催された際、小澤善平は農商務省から、葡萄栽培で有功賞牌、葡萄酒で褒状を授与された。その審査評語には「外国ブドウ良種ヲ移植シ接挿及ビ屈条切枝等善ク法ニ適ヒ以テ栽培家ニ裨益ヲ与フ」と記されている。

こうした評価にも甘んずることなく、彼はその翌年の1882(明治15)年に再び渡米し、さらに1年間をブドウ栽培の研究に費やした。帰国後、終生の夢であった一大ブドウ園の開拓に乗り出し、その候補地として群馬県・妙義山麓に行き着いた。1889(明治22)年、妙義町諸戸(現・群馬県富岡市妙義町)の官有地の払い下げを受け、ここにブドウ園を開園した。そして、デラウエアをはじめとする数百種のブドウの苗を植えつけ、土壌の研究や接ぎ木の技術、肥料、気候研究のほか、海外の農業技術の普及・奨励に努めた。

1897(明治30)年、遂にワイン醸造の事業化に着手するが、残念ながら思うような成果を挙げるには至らなかった。善平のワインづくりに賭けた熱い思いはこの地で終焉を迎えた。享年65歳であった。

彼は、自身のワイン醸造事業こそ形にすることはできなかった。しかし、アメリカから「デラウェア」をはじめとした様々なブドウの苗を輸入し、自らの手で育て上げ、ブドウ栽培の普及につとめたその努力は、その後の日本ワイン産業の発展に欠かせないものであった。

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